徳育の源流へ・・・
「日本の神話 教育について」
その①
あなたは、日本の神話を語ることができますか?
古事記、日本書紀に記された神話の世界、現代語に訳されていても読み解くのに結構忍耐?がいるのも事実です。神話は読んでみたいけど、難しい漢字は苦手*_*)・・・ そんなあなたに紹介するのは、「神話の絵本」です。かくいう家訓二ストもこの絵本で神話アレルギー?を克服することができました。
この絵本は、2007年 日本青年会議所 教育の拠り所策定委員会の有志が自費出版で制作したものです。
オールカラーで、値段は500円(><)
完全に赤字・・・っというか、最初から儲けるつもりもなく、多くの方に手を取っていただきたいとつくりあげた奇跡の絵本なのです。
家訓づくりプログラムは、親学の素材として開発させていただきました。
そして、同じく親世代の学びのため、絵本をツールとして、読み聞かせの大切さを訴求されたものが、「幸せの国の幸せのこどもの話」にあたります。
幼い頃に、絵本の読み聞かせを受けている児童は、その後の成長や発達に素晴らしい効果をもたらすことが知られています。そして、読み聞かせの素材として、日本に古くから伝わる神話をチョイスしたもの秀逸です^^
絵本というツールをつかって、シャワーのように我が国のアイデンティティーに触れることは大事なことなのではないでしょうか?
世界的な歴史学者として知られるアーノルド・トレンビー博士は、「民族の神話を学ばない国は間違いなく滅びる」と述べています。
国際化!と言われて久しいなか、真の国際化とは、自分の国を、自分の言葉で伝えることです。幼少期からの英語教育・・・というのも何だか滑稽で、まずは、しっかりとしたアイデンティティをもつこと。そしてそれをつくるものが、神話であるべきだと家訓二ストは考えます。
神話の絵本「幸せの国の幸せの子供」。家訓二ストは、勝手に応援団を自称し、行く先々でこの絵本の重要性を紹介してきました。
家訓で知り合った神道青年会の皆様や、旅の先々で出会う多くの仲間に、運動の輪をひろげてこれたのも、神さまの導き?があったのかもしれません。
皆様のご家庭にぜひこの神話の絵本をおき、そして子供たちと楽しく学んでみてください。
ディーエスだの、スマホだの、電子の中だけのコミュニケーションだけでなく、肌のぬくもりを感じながら、自分を育んだ日本という国の「成り立ち」を子どもたちと一緒にたどっていただくことを祈念します^^
家訓づくりプログラムで問うものは、あなたの価値観。それは、アイデンティティです。そして、日本のアイデンティティーをみつめるもの。それが神話であると確信しています
最後に、神話クイズです。
Q:今年は、2013年です。では、西暦の始まりの由来はなんでしょう?
A:キリストの生誕をゼロ年としてカウントしたもの
Q:クリスマスは誰の誕生日?
A:イエス・キリスト・・・ではありません。ローマ時代に後付で冬至のお祭りを組みあわせたものに由来しているそうです。
Q:日本の建国したのは、いつでしょう?
A:2672年前の2月11日 奈良県橿原で建国されました。
Q:では、建国したのは誰でしょう?
A:初代天皇に即位することになる神武天皇です。
キリスト教徒でもないのに、聖書のことって知識として知っている人も多い気がします。ドラマであったり、クリスマス会であったり、外人さんは上手にアイデンティティを紹介する術をもっているようです^^;
外国のカルチャーを否定するつもりはありませんが、どうせなら、日本のことを知っておくべき、そして子どもたちに「日本」を伝える必要ってないでしょうか?
「伝える」前に、子育て世代である我々が知らない日本の建国歴史を、子どもたちに伝えることなどできません。では、なぜ知らないのか? 答えは簡単、「習ってない」から。それは戦後のGHQ主導の教育改革の中で、日本を緩やかに弱体化させるべく、「神話」を否定したことに由来します。
初代神武天皇より、10代にわたり100歳をこえる歴代天皇が登場することから、神話に由来する建国の歴史を、「科学的でない」っと否定する意見も多いようです。
しかし、クイズでも紹介したように、西暦の始まりや、あるいは聖書、新約聖書の中では500歳をこえる方、方舟で有名なノアなどは、300歳で、子どもを、500歳で洪水。そして950歳で死去っと、現実的ではない記述がみられます。
「ノア」は、いませんでした!っというのは、簡単。でも、ノアから連なる西洋の歴史すべてが否定できるのでしょうか? 神話の整合性でなく、伝えれてきたっという事実と向き合う姿勢。そして、この伝承を次の時代に引き継ぐ責任がぼくらにはあります。
神代から現代へ。
神話はおとぎばなしでもなく、地域地域に神話に由来を根ざすご祭神があり、秋祭りあるいは、初詣と、暮らしの中で共に息づくものです。
平成の世のたばねる天皇陛下ご自身も、神代より系譜を連ねる奇跡の存在でもあります。
創業200年をこえる会社が3000社。これは2位のドイツ800社を大きく上回る老舗大国であることは、プログラムでも取り上げさせていただきました。「古い」ということは、「長く続く」ということ。長く続くということは、不断の努力はもちろん、価値観の継承がしっかりされ、なおかつお客様、地域に愛され「徳」を育んできた証拠に他なりません。
これは、企業だけでなく「国」でも同じことがいえるのではないでしょうか?戦乱の絶えない人類の歴史の中で、建国が、2672年前。これは世界中で日本が一番古く尊い国ということを表しています。
最近の考古学の調査では、建国の地とされる奈良県橿原から多くの出土物がでてきており、3世紀に登場する古墳群の存在、4世紀の朝鮮に残る好太王碑文の記述、お堅い歴史学者が、実在を認める天皇までさかのぼっても、実に1500年の歴史を誇っているのです。日本の次に古い王族は、英国王家の1000年です。桁違いに古い歴史をもつことは自覚と、自慢をしなければなりません!
日本ってすごいっ! て思いませんか?
そんなすごい日本に生まれ育つってことは、幸せではないでしょうか ?
そんな幸せを手に入れる、神話の絵本「幸せの国の幸せのこどもの話」
ご注文は、こちら↓↓↓ WEBでお待ちしています^^
徳育の源流へ・・・
その②
建国の日を知らない子どもたち
どこのご家庭でも、子ども達の誕生日には、お祝いをすることでしょう。
そこに理由なんていりません。
またキリストさんが生まれた(とされる)クリスマスにも盛り上がります。
古今東西、自分が生まれた日、そして国が生まれた誕生日は、盛大なお祝いをするものです。しかし、今の日本では、建国記念の日の意味さえ分かっていないそんな寂しい現状があります。
少なくとも、キリストさんの誕生日よりも注目してもバチは当たらないのではないでしょうか?
建国記念の日にあわせ、産経新聞をの一面に日本JCの取組が紹介されました。
そして、この記事はヤフーのトップページに紹介されています。1つの会議体が起こしたさざ波が、波となりうねりとなる。そんな予感がする快挙です
今回、日本の建国について、国史会議が1万人以上の皆様からアンケートを集めて調査したそうです。
「今日が建国記念の日とは知っている」。
でも8割の方が、いつ、どこで誰が建国かしたかはわからない(*_*)
建国記念の日は、紀元前660年2月11日 初代天皇である神武天皇が橿原(奈良)の地で即位されたことを祈念する祝日です。
水戸JCでも14年の8月例会のキャンプ事業の際、50人の子供たちに、建国の歴史を問う問題を出したことがあります。正解者は、50人中2名(-_-;)
わずか5%という結果でした。
子ども達にとって、神話までさかのぼる世界で一番古い国に住んでいるという事実は、様々なプライドをもらたしてくれるはずです。
意地悪な識者が、初代天皇なんていなかった!っと言われたとしても、実在が確認できる継体天皇までさかのぼっても建国は1500年前で世界一。
紫式部が、世界最古の長編小説を「源氏物語」かきあげたのが1000年前。ここでようやく、日本につづく二番目に古い国、デンマーク王室が誕生します。さらに、鎌倉幕府ができた1192年頃、イギリス王室がようやくできたとのこと
どこを切り取っても、世界一!
古い歴史があることは、子ども達に誇りをもってもらえることに繋がります。国を愛することは、家族、周りの人を愛し、笑顔を育み、広げることにつながります。
そもそも、日本を誇りにおもう。そのことが悪いことでしょうか?
右、左、まんなか? それぞれの主張があってこその民主主義ですが、国史教育を施されたのち、子ども達自身が、判断すればいいだけのこと、大人たちの勝手なバイアスで、歴史を伝えなことは、無知でなく、犯罪です。
家訓づくりは、大人むけのプログラムですが、その内容は、先祖から渡されれ来た日本人の誇りや価値観を思い出す内容です。家族に伝わる「歴史」を紐解くもの。これが家訓づくりの神髄です。
そして、子ども達に、日本の国史を伝えるために、「偉人伝」や「徳パック」の開発、立ち上げについてもお手伝いしてきました。これも国史の一部であり、ここ数年手掛けてきた運動が、ようやく昇華されはじめたものと、勝手に盛り上がっています。
JCのOBとして、そして日本人として、柴田会頭のもと、あらたに立ち上げられた「国史会議」の活躍を祈念しています。
新聞の一面になるように家訓づくりもがんばれねば(ー_ー)!!
徳育の源流へ・・・
日本の神話教育について
その③「ひとに迷惑をかけない」
家訓づくりプログラムでつくられる創作家訓に、かなり確率で登場する家訓があります。 それが、「ひとに迷惑をかけない」という家訓です。この背景を幡谷の独断と偏見で探ります。
日本には主に神道と仏教の2つの宗教があります。日本ではこれらの宗教は大きな意味を持っており、日本人の考え方や精神性、仕事や神に対する姿勢から自然や美意識までに影響を及ぼしており、普遍的に存在する要素なのではないでしょうか?
特に神道は、一神教であるキリスト教やイスラム教とは異なり、多神教であり特に開祖者の存在もなく、聖書やコーランのような聖典もない。また、階級といった区分けももたらさず、教訓や生き方の教えも特にないと、西洋社会における宗教と大きく異なっています。
戒律がないことで、生まれる道徳というのが「日本人の尊さ」の源泉になっています
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、啓示宗教ともいわれ、神様の教えを書物として整理し、宗教的儀式にくわえ、日常生活の「豚をたべちゃいけない」「日曜に働いてはいけない」とかとか、結構親切に、戒律を設けています。
しかし、戒律があり、信徒はこれを守る。という考え方が、戒律さえ守っておけば、それでいい・・・
っという短略的な不道徳さを誘発する怖さも含んでいます。
この時、日本の道徳、とくに神道を底流とした「哲学」のすごさは、決まりがない!という最強の矛盾です。この言葉なき哲学をむりやり言葉にあてはめれば、「お天道さまがみている」という自分への戒めになります
不肖幡谷も、ばれなきゃいいっとイタズラを働き、「お天道さまがみている」っと今はなき祖母から怒られていた事を思い出があります。
例えば、万引きをしたとして、その善悪をどう解釈するのか?
一義的には、盗難は犯罪ですから、法にのっとり処罰されます。
また「見つからなければいい」という考えも、現行犯逮捕が前提となれば
嘘ではありません。法治国家では、法の想定していない悪事は、原則無罪になります。これは善悪で統治するのでなく、法で統治するがゆえの矛盾です。例えば、原発事故がおこっても法律で想定していなければ、それは「無罪」っとなってしまうのです。
これが、法、そして戒律でおこりうる最大の自己矛盾です。
「お天道さまがみている」っという戒律なき哲学のすごさは、内在する尊さの豊富さでもあります。
震災の時、配られる食料を奪い合うこともなく分け合う姿に、世界各国は驚きをもって報道を繰り返しました。
この奇跡は、日本に脈々と流れる 「お天道さまがみている」⇒「ひとに迷惑をかけない」という哲学の結晶に他なりません。
【ひとに迷惑をかけない】、という考え方に、正解はなく、また報酬もありません
【ひとに迷惑をかけない】という考え方は人々に戒めと、気遣い、そして社会に秩序をもたらします。
あ~日本人にうまれてよかった!
徳育の源流へ・・・
「日本の神話 教育について」
その③ 感じる宗教と信じる宗教
あなたは、「いただきます?」の本当の意味をいえるでしょうか?
お百姓さんに、いただきます。
つくってくれたお母さんにいただきます。
太陽や、風にいただきます。
米粒にやどる神様にいただきます。
命をいただきます・・・
共通しているのは、「もったいない」という感覚より崇高な、別の次元の感覚です。
家訓二ストは、これを「感謝」と捉え、さらに「ご飯を残さない」→「感謝を行動であらわす」ことと定義し、家訓づくり。さらに姉妹プログラムの徳育ゼミナールで紹介させていただいています。
「ごはんつぶを残すと目がつぶれる!」
おとんや、おかんに言われた迷言?も、日本に受け継がれた崇高な精神の結晶なのです
このように、科学的にいえば、カロリーを摂取するだけの食事において、「米粒を残さない」ことは、合理的でない違うニュアンスが含まれることがわかります。これは、「理念」の問題と仕訳でき、またこれを二ストは、「宗教」と考えます。
一般に、西欧では、「信じる」宗教。そして日本には「感じる」宗教と言われています。
現代の日本に暮らす多くの人にとって、宗教とはどこか遠い世界の事柄のようにとらえがちです。また、特定の宗教を信じない無神論者が多いことでも知られています。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
最近、ネットでみつけたこんな記事を紹介させていただきます。
(東工大教授 上田先生のインタビューより)
私も東工大で必ず年に1回、学生にいやがらせの質問をするのです。
「この中で宗教を信じている人、手を挙げてください」と言うと、200人の教室で2、3人の手が挙がる。クリスチャンとして洗礼を受けている子や創価学会の子は手を挙げる。でも、みんなにヘンなヤツだと思われるから、挙げない子もいると思うんですね。「じゃあ、何も信じてない人、手を挙げてください」と言うと、みんなバーッと挙げるんですよ。「その中で初詣に行ったことのある人」と言うと、手を挙げる。「その中でお守りを持っている人、持ったことのある人」と言うと、手が挙がって、カバンの中に持っている子がいるんです。「じゃあ、あなたたち、宗教を信じていないのなら、ここにハサミがあるから、そのお守りをズタズタに切って」と言うのです(笑)。
「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。「じゃあ、切れよ」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。
http://toyokeizai.net/articles/-/22709?page=2
(↑ 全文はこちら)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お守り・・・切れない(><)
あと、お守りの中も、見れない・・・
そして、お米、粗末にできない^^;
いずれも、多くの日本人に共通する「感じる」宗教観の象徴的な事例です。
唯一の神を信仰する「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」
その他にも、仏教、ヒンズー教・・・っと、世界にはたくさんの民族、そしてたくさんの宗教があります。
しかし、日本に横たわる「感じる宗教」には、特殊な特徴があります。
①教祖がいない
②教義もない
ねっこれが宗教なの?っというぐらい象徴的でもあり、なおかつ自由すぎる印象はないでしょうか?
教義がないから、罰則もない。決まりもないから、仏教もキリスト教も、自然に受け入れることができる寛容さも持ち
なおかつ、漠然とした正義感のもと、社会の秩序をなんとなく保っている!
日本人が世界に賞賛される理由も、日本人が、世界からちょっと理解されない理由も、この感じる宗教と、信じる宗教のギャップが由来していると家訓二ストは考えます。
「感じる宗教」にあえて、教義を付け加えるなら【お天道さまは見ている】という素朴な哲学です。
前述の上田教授のことばを借りると、エッチな本を読むときに、仏壇を閉じるのが日本人^^;ということらしいです。
つまり、どこかで見られている感。そしてご先祖さんに、見守られている感を象徴する事例です。
徳育の源流には、日本に古くから伝わる伝統の力が必要です。
そして、今の教育現場では、不自然にそんな力を切り離してきました。
しかし、難しい問題ほど、答えは、案外足元にあります。おじいちゃん、おばあちゃんが大事にしてきたものをもう一度思い出し、次の世代に渡すことができれば、荒れた子どもも、ちょっと自信がない子も、元気に成長できると考えます。
徳育の推進のため、日本神話の復活を提言していきます