北京で行われた世界陸上は、織田さんをのぞいて、今年も微妙に盛り上がれずに閉幕しました.
黒人さんの躍動感や、白人さんの筋肉をみると、日本人には一生勝てないような気さえしてきます。
ただしそれはそれぞれの民族の得意、不得意があるせいなのかもしれません。
...では日本の得意な種目って何!?
題して「ボルトはなくても、荷物は届く!」
家訓二スト幡谷による負け惜しみのエッセーです(ー_ー)!!
近年、中国の選手が上位に組み込むようになりましたが、アジアに多く住む、モンゴロイドは、どうにもかなわない壁があるな・・・っと感じないでしょうか?
実際、筋肉の組成をみても、黒人、白人、黄色人種の間には大きな違いがあるようです。
しかし、それは得意なものが、あれば不得意なものがあるっというだけ、我々日本人には、なにか違う得意種目があるはずです。
たとえば100mを10秒以下で走れるボルトだって、なにか生活に役立つか?といえば、あのスピードが求められるシチュレーションってあんまりなさそうです。
それよりも、毎日、同じ時間に電車がくることや、宅急便をだせば次の日には日本中配達されることの方が、何倍もすごいことだと確信しています。
日本の得意種目とは、まじめさとチームプレイ。そして世界一とも思える我慢強さです。
こうした国民性を背景に、自動車をはじめとした製造業や、まちのスーパーやクリーニング屋さんまで、あらゆる面で、日本に暮らす国民は最高のサービスを受けることができることを喜ぶ必要があるのではないでしょうか?
とくに、宅急便は、外国にも宅配便のサービスはありますが、値段や、時間の正確さは比べようもなく、海外で仕事をする商社マンに聞いても、宅急便のすごさは群を抜いているっとおっしゃっていました。
そもそも宅急便は、ヤマト運輸の商標です。
また現在では当たり前のように市民の生活に溶け込んでいるサービスも、ヤマト急便のオーナー小倉昌男の意地と根性で作り上げた社会資本だということを感謝しなくてはなりません。
宅急便の誕生前、個人が頼める荷物の輸送は郵便局の独占でした。しかもそれは6kgまで。6kg以上の荷物は、 鉄道を利用する「チッキ」という制度しかありませんでした。
鉄道では30kgまで送れたが、差出はしっかりと梱包し紐で縛って小荷物取り扱い駅に持参し、受取人は駅に取りに行かなければならないという制度です。どちらも現在のように一つ一つの荷物を番号管理もしておらず、いつ届くのかさえわからないサービスでした。
日本の消費者に便利さをもたらし、またビジネスシーンでも、納期を守る切り札として国民生活に切っても切り離せないサービスをもたらした小倉とはどんな男だったのか?ここからは、ヤマト運輸の歩みとともに紹介してきます。
=小倉昌男とは?=
小倉昌男、おぐら・まさお。日本の経営者。ヤマト運輸社長・会長。東京帝国大学経済学部卒業後、父が経営する大和運輸へ入社。父の後を引き継ぎ社長に就任する。クロネコヤマトの宅急便により、日本に個人向け荷物宅配サービスを普及させた。運輸省と正面から意見を対立させ勝利するなど数多くの伝説を残した。享年80。
1975年の夏「宅急便開発要項」を社内発表、新商品開発を進めた。1976年1月23日「電話1本で集荷・1個でも家庭へ集荷・翌日配達・運賃は安くて明瞭・荷造りが簡単」というコンセプトの商品『宅急便』が誕生した。1日目の取扱量は11個だったが、その後急速に取扱量が増え、半年ほどで店に置ききれないほどの荷物がもちこまれる日も出るようになり、1976年度の想定取り扱いは20万個だったが、実際には170万個になった。日本通運など他社も同様のサービスを開始した。
事業化にあたり、運輸省からの数々の嫌がらせを受け、ときには正攻法で、ときには行政訴訟という手段をもちい消費者のメリットのために戦い、そして売上をのばしています。
そして近年では、宅急便の海外展開をはじめており、日本生まれのサービスが世界中の人々に提供されはじめているのです。
中国のコトワザでは、井戸を掘った人を忘れないというものがあります。
消費者のためにすることが、事業の成功につながるとの信念のもと、官と戦い、国民すべてに便利なサービスを提供しつづけているヤマト運輸の歩みと、小倉昌男の歩みはまさに、井戸を掘った偉人ではないでしょうか?
日本人は、100mで、10秒をきれないが、
茨城で出した荷物が、翌朝には大阪にも、九州にも届けてくれる無敵の宅急便屋さんがいるのです!
日本のために宅急便という井戸をほった小倉さんの歩みに、金メダルを送りたいと思います^^
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