長崎 焼き場にたつ少年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■焼き場に立つ少年

 

報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 

 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。

すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。

男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。

荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

 

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。

おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。

弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。

重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。

しかも裸足です。

少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。

背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

 

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。

白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。

この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。

男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

 

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。

それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。

その時です。

炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。

少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

 

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

 

(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]

 

 

■日本人が忘れてきたもの・・・

 

「焼き場にたつ少年」は、先日の「山口秀範先生を囲む会」の講話のなかで、ご享受いただいた1枚の写真です。

 

当時、長崎・広島で撮られた写真はGHQの管理下にありました。しかしこの写真はオダネルさんが、軍規で禁止されていた私用のカメラで撮影し、公開をとまどい秘匿していたものを近年、発見され、はじめて公開された写真です。

 

「焼き場にたつ少年」は、凛々しく、そして毅然した姿に圧倒されます。

 

この写真をみて、感じる想いはそれぞれだと思います

ある人は、戦争の残酷さを想い、またある人は、平和の尊さを感じることでしょう。

 

幡谷はこの写真から、少年の毅然とした態度。そして日本人として忘れてはいけない高い精神性を感じます。

カメラを向けたアメリカ兵は、敵国の人間です。そして戦争は完膚なきまでに日本を痛めつけました。しかし、少年の態度は、負けてもなお毅然とし、肉親を亡くしたくやしさを隠すため、唇をじっとかみしめています。なにより印象的なのは、姿勢を正しまっすぐ前を見ている姿そのものです。

 

日本が焼野原となった大地から復活し、世界から賞賛される国となるのは、この少年が大人になる頃のお話しです。衣食住に困ることなく、現代をのほほ~んと生きる我々のなかに、少年がもつ気概や、まっすぐな視線は、果たして持ち合わせているでしょうか?

 

「焼き場の少年」の写真は、日本人が忘れてきたものを教えてくれる写真です。

 

 

■生きながら死んでいる時代に

 

今回、勉強会の講師としてご登壇いただいた山口秀範先生は、大手ゼネコンに勤められ、海外での赴任も多いエリートサラリーマンでした。

 

しかし、数十年ぶりに日本に帰ると、貧しいはずのアフリカの子どもたちの目がキラキラしているのに、日本の子どもたちの目が死んでいる・・・と感じたそうです。

 

子ども達をとりまく環境が激変し、いじめや、貧困など多く問題が蓄積するなか、本当に恐ろしいのは、子供たちが「生きながら死んでいる」ことです。

子供の頃から、日本人として綿々と引き継いできた高い精神性を忘れ、目的もなく勉強をさせられ
理由も考えることなく学校に通わされる子どもたち。

しかしもっと罪深いのは、歴史と伝統をつたえず、自己主張に終始する大人達こそ、「生きながら死んでいる」と確信しています。

歴史を学べば、戦後復興を果たした日本は、歴史上、多くの民族や英雄が手に入れられなかった繁栄と平和の時代の真っただ中にいるはずなのに、なぜ子ども達、そして我々親世代は、「生きながら死んでいる」のでしょうか?

 

幡谷が考える「生きながら死んでいる」問題の解決策は、「感謝の心」。とくに「ご飯粒を残すな」というたとえで説明します。

 

子どもの頃、「ご飯つぶを残してはいけない!」と経験をお持ちでしょうか?

他にも「御飯つぶには7人の神様がいる」とか、「米粒を残すと目がつぶれる」とか、たくさんのたとえもあるようです。

 

お米が食卓に並ぶためには、御飯を炊いてくれるお母さん、働いてお金を稼いでくれるお父さん、稲をつくるお百姓さんに、太陽や水など、たくさんの手をへる必要があります。これに感謝し、美味しく食べるとき、「いただきます」「ありがとう」。そして、「ご飯粒を残さない」という明確なフィロソフィー(哲学)があることに気づかされます。

 

西欧では、聖書が、中東ではコーランがあるように、日本には、「ご飯粒をのこさない」という報恩感謝の哲学が存在しているのです。

 

お米を大事にするメッセージは、親から子へ、そしてはるか前のご先祖さんから口伝えにされてきたものです。
1粒のごはんに感謝することは、自分自身が数えきれない多くの人達に支えられ生かされているという大切なことに気付く事が出来るはずです。

 

「目が死んでいる」と言われる現代の日本人にとって、 感謝もなく見過ごしてきた日常の小さな幸せに気付けるようになることは、とっても大事なことです。そして、「感謝」の心が芽生えた後は、報恩感謝、恩に報いるために、自分自身が何をすべきか?という実践が求められます

 

人間の幸福は、「人から必要とされて、自分の存在意義を感じる瞬間」です

また別の言い方では、自分が幸せになりたければ、他人を幸せにしろ」との格言もあります

 

報恩感謝、恩に報いる生き方とは、ヒトのために生きること。

人のために生きるとは、自分自身の置かれた場所で、精一杯の「誠」を尽くし、世のため人のため、誰かのために、その日その日を懸命に生き抜くことに他なりません。

 

この世に生を与えられた意味や果たすべき役割を見つけた時、「死んでいる魚の目」に魂がこもり、大人も子どもも日本中が輝くことを予言します!

 

いま、あなたの暮らす街にたっても、戦後の焼の原となった日本とは、違う惑星のようでいて、隔世の感はいなめません。

しかしぼくや、あなたのおじいちゃん、ひいおばあちゃんの見てきた光景は、まさに「焼き場にたつ少年」の目線に他なりません。

 

さいごに、2011年東日本大震災の発災時、世界中で感動を呼んだ「一本のバナナと少年」の話を紹介し、まだまだ捨てたもんじゃない日本と、正すべきは、大人。とくに自分自身であるとの戒めを記しておきます

 

ぼくはこの少年のようにまっすぐ前をみて生きているでしょうか?
たくさんのことを教えてくれる一枚の写真から感じたことをブログでまとめました
ディスカバリー日本
感じたことない古くて新しい日本は、心の中にあるようです。

 ■ベトナムで感動を呼んだ一人の少年のお話し

 

 彼が寒そうに震えているのを見て、自分は警察のコートを脱いで、彼に羽織り、夕食のパックを渡した。彼がすぐに食料を食べると思っていたが、彼は配給用の食料箱の中にパックを置いて列に戻った。僕のびっくりした眼差しに対して、彼は「ほかの多くの人が僕よりもおなかを空かせているだろうから、そこに入れて、公平に配ってもらうように」と話した。

 

それを聞いて、私は急いで顔をそらし、涙を隠した。最も困難な時に、9 歳の男の子が大人の私に、人としての道を教えてくれるとは思いもよらなかった。

 

9 歳の男の子でも、忍耐強く、困難を耐え、他人のために犠牲になることが出来る日本という民族は、きっと偉大な民族だと思う。日本は、最も困難な状況に直面しているが、少年の時から自分を捨てることができる国民性のおかげで、必ずやより強く再生するに違いない

 

 (震災時、ベトナムから取材にきた記者の体験談と記事より)