13日の金曜日に行われた舛添都知事の「釈明会見」をみて、納得した都民はどれくらいいるのでしょう?
「点数をつけるなら、マイナス1億点」と指摘するのは、小泉内閣で首席秘書官を務め、飯島勲氏のコメントです。
「謝罪会見」とは法律上の問題を争う場でなく「印象」を争う鉄火場です
枡添さんの記者会見をサンプルに「謝罪の科学」を研究してみました
■「舛添会見はマイナス1億点」内閣参与・飯島勲が激辛採点!~危機管理のプロが見た問題点とは
(参照:現代ビジネス
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48657?page=2
あれなら、やらないほうが良かった
13日の金曜日に行われた舛添都知事の「釈明会見」をみて、納得した都民はどれくらいいるだろうか。「あまりに問題が多すぎる。点数をつけるなら、マイナス1億点」と指摘するのは、小泉内閣で首席秘書官を務め、「政界の裏のウラまで知り尽くした男」と畏れられた飯島勲・内閣参与(特命担当)だ。 舛添要一都知事の釈明会見。メディアから、「危機管理のプロとして、あの会見は何点か」と聞かれたので採点させてもらうが、100点満点でマイナス1億点である。
あの会見を経て、都知事として職務を正常に遂行するのは不可能と言わざるを得ない。舛添が来年、都知事として「竜宮城ホテル三日月」に家族と宿泊することもないだろう。 では、何が間違っていたのか。 確かに、舛添はうまい言い方を連発した。「ホテル三日月で政治の機微に触れるような人と会ったから、誰と会ったかは言えない」というのは、たとえ嘘であってもバレない。これ以上にうまい言い逃れはない。 しかし、怪しげな領収書やその計上方法について、指摘された部分しか謝罪をしなかったことが、致命的な戦略ミスであった。まず、これがマイナス5000万点だ。そして、あの「感じの悪い言い方」がマイナス5000万点。あれでは、会見に好感をもった人はいない。
毒にも薬にもならない会見であれば0点であっただろうが、あのレベルの会見なら開かないほうがよかった。ゆえに舛添の会見は、マイナス1億点なのである。ベッキーの謝罪会見のほうがまだよかった。
彼にはさらなる反省が必要だろう。 私は小泉内閣時代を含め、会見などの取り仕切りを何度も行ってきた。もちろん謝罪会見もだが、「危機管理のプロ」と呼ばれるのはそのためである。そして、その経験から会見には「いい会見」と「悪い会見」があると断言できる。 詳しく説明しよう。
「いい会見」「悪い会見」の最大の違い
危機管理の面から考えて、謝罪会見の意義とは、これ以上、スキャンダルのダメージを防ぐものである。スキャンダルが法的に重いものであるか、軽いものであるかは問題ない。 おかしな話に聞こえるかもしれないが、例えば、以前に「不倫は文化だ」という旨の発言をしたタレントがいて、相当期間仕事がなくなってしまったと聞いたが、そのタレントは法的に間違ったことを言ったわけではない。しかし、仕事がこなくなってしまった以上、それは「悪いもの」だったのだ。彼の場合、「悪いことをした」と認めなかったこと、聞かれたことにしか答えなかったことがダメージを大きくしてしまった。
舛添の場合、質問に答える形式ではなく、すべての不正計上やあらゆる領収書の精査をしたうえで、自らそのすべてを説明し、ひとつひとつに謝るべきだったのだ。 また、弁明に「感じがいい・悪い」などない、という人もいるだろうがそれは違う。 先日、お亡くなりになられた塩川正十郎・元財務大臣は、在任当時、官房機密費について過去の発言と現在の発言が食い違うことを共産党から糾弾され、大ピンチになった。しかし、そこで塩川大臣は、持ち前の人の良さそうな顔つきで「発言したことを忘れてしまいました」と言った。 まったく答えになっていない回答であったのだが、不思議なもので、これでこの問題は沈静化し、内閣がぶっ潰れるかもしれない大ピンチを乗り切ることができたのだ。 決して論理的に納得のいくものではない。しかし多くの国民はこのひと言で彼を許してしまったのだ。感じのいい弁明とはそれほどまでに大事なのだ。 ここでぜひ伝えておきたいのは、謝罪の方法というものは、過去の会見から学べるということだ。特に、政治家あるいは霞が関の会見は、謝罪術の宝庫である。
■謝罪の科学
スタンフォード大学の心理学者カリーナ・シューマン氏は、98人の成人を調査して「誰かを傷つけたけど謝っていないこと」を思い出してもらい、もし謝罪するなら何と言うかを書き出すよう依頼しました。
シューマン氏は「人は『良いイメージ』を維持しようとする傾向がある」という考えに基づいて調査を実施しており、この考え方が謝罪を嘘くさく感じさせる原因になっていると分析しています。誰かを傷つけたり失望させた時、人は自身の理想像を危険にさらしてしまいますが、そんな状況におかれた人はとっさに自我を守ろうとしてしまうため、謝っているように聞こえない「弁解的な謝罪」になってしまうとのことです。
シューマン氏によると、典型的な「悪い謝罪」には4つの特性があり、「不快な行動や失言を正当化する」「被害者を非難する」「弁解をする」「事態の最小化を図る」が含まれていると悪い謝罪になるそうです。
■優れた謝罪を行う方法とは?
2015年5月にアメリカ・ペンシルバニア州のフィラデルフィアで発生したアムトラック脱線事故では、8人の乗客の命が失われ、200人以上の負傷者を出す大事故となりました。人々の命が失われた場合、多くの企業は謝罪を体裁よくごまかそうとしますが、謝罪の仕方によっては会社が倒産してもおかしくない状態です。そんな中、アムトラックのジョー・ボードマンCEOは、事故発生後すぐに謝罪を発表しました。
謝罪文の一部を抜粋すると、「心より謹んで亡くなった方々に哀悼の意を表します。彼らを失ったことは、私たち家族、および社会に大きな穴を残しました。アムトラック・ファミリーを代表して、私は可能な限りのお悔やみを申し上げ、亡くなった方々と彼らを愛する人々にお祈りを申し上げます。アムトラックは全面的に責任をとり、この悲劇を生み出してしまった我々の行いについて深くお詫び申し上げます」という内容になっており、シューマン氏は「現代における最良の謝罪の1つ」と述べています。
効果が高い謝罪の方法ランキング
もっとも効果的だった謝罪の方法は以下のとおり。上から効果が高い順番にならべております。
1.自分の責任を認める
2.問題の解決案を提示する
3.後悔を表明する
4.何が悪かったかを説明する
5.もう二度としないと表明する
6.許しを求める
統計的には1位の「自分の責任を認める」の効果がずば抜けて高く、やや遅れて2位の「問題の解決案を提示する」が続きます。
なんだか悪い印象しか残らなかった枡添さんの謝罪会見にプロットしてみると、一番効果の高い、「自分の責任を認める」点を、会計責任者のせいにした時点で、アウト
謝罪とは、「許しを請う」もの。初手から居直ってしまっては、許しを請うのではなく、喧嘩を売りに来た会見となってしまいました
飯島元秘書官の言葉をかりればマイナス1億点。
「謝罪会見」とは法律上の問題を争う場でなく「印象」を争う鉄火場です。史上まれにみる残念な「謝罪会見」はどうして避けられなれなかったのか?
もう1度検証してみます。
■舛添さんが間違えた記者会見のゴール
優秀なはずの舛添さんが、陥ったミスは、記者会見のゴールを間違ったことです
この時のゴールとは着地点のことを指します。政治家として、法的に問題ないこと、あるいは法的に問題がでないような言い訳に終始した舛添さん、しかしこのゴールが更なる炎上を生んでいます
本来、設定すべきゴール、そしてルールは謝罪から得られる「印象」です
領収書の合理性など、法律的な見解よりも大事なことは「印象」。
「回転ずしでの打ち合わせ」そんな1つのキーワードだけで、印象は地に落ちます(*_*)
庶民のゲスな視点は、浅ましいようで、実は本質をとらえる目線でもあります。
「んっな訳なないよ 枡添さん(>_<)」というのが多くの視聴者の感想なのではないでしょうか?
あなたも心の中で感じる違和感。このモヤモヤ感が、記者会見の失敗を物語る証拠なのです
これだけのニュースになったなか、関係者のなかで誰ひとり舛添さんを擁護する声が上がらないというのも印象的です。記者会見のゴールを間違えた舛添さんでしたが、そもそも普段の行いが不徳であったのではないでしょうか?
また舌禍で度々問題をおこした石原元都知事と比べると、記者とのやりとりに、ユーモアも、インテリジェンスもありません。そして、石原さん、あるいは大阪の橋下さんと比べると枡添なる男の政治的な実績はほとんどないことに、有権者が気づいてしまいました。
ピンチになると本当の価値が試されるもの、朝まで生テレビや、官僚たたきで実績を積んできた枡添さんですが、叩くのは上手いが、叩かれるのはめっぽう弱いというのも、謝罪会見で露呈してしまっています。
簡単にいうと、器が小さい!
そんな長を選んでしまった東京都民の皆様が、今度はどんな人物をチョイスするのか
枡添さんの次は、有権者の見識が試される番です。
■印象が大事
まもなく始まるサミットにあわせ、アメリカ大統領のオバマ氏が現役大統領としてはじめて、被爆地・広島を訪問します
どんなメッセージをだされるか注目されるなか、多くの関係者、とく被爆体験をされた皆様が一応に謝罪をもとめず、ただ「感じる」ことを望んでいることが印象的です
「謝罪」とは、文字通りにいえば謝ること。しかし、本当の意味は、被害者や迷惑をかけた人に「寄り添う」ことが大事なのかもしれません
謝ったって、1円にもならないし、罪の過多は、裁判で決めるもの、究極にいえば謝罪会見を行うこと自体、ナンセンスです。しかし大衆は謝罪をもとめ、マスコミはそれを書き立てます。枡添さんの残念すぎる謝罪会見までは、公開処刑のような印象もあり、正直、1つのショーだとバカにしていました
しかし、イギリスの首相チャーチルは、こんなことをいってます「民主主義は最低の制度だ、これまで試みられてきた全ての制度を除けば」っと、大衆迎合が民主主義の本質であり、政治家は炎上する姿までさらしてこその民主主義だという結論にいたりました
しかし、被害者の気持ちになり、相手に寄り添うことのできる「謝罪」は、怒りを鎮めるだけでなく、究極のコミュニケーションにもなりえるとも思います
そもそも謝る場面がないよう日々、自分に厳しく生きていくことが一義
そしてもし謝る場面が出てきてしまったなら誠心誠意、罪とむきあい恥じも外聞もなく、ただただ謝ることをお勧めします
・・・あの件と、この件っと、嫁さんにどうやって謝ろう(>_<)
記者会会見よりも、嫁さんの方が100倍怖い。枡添さんの失敗を参考に皆様も「謝罪」を研究してみてはいかがでしょうか?
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