CEO豊臣秀吉 ~なぜ豊臣家はつぶれたか~
「温故知新」(古きを訪ねて新しきを知る)
歴史には現在にいかすことのできるたくさんの教訓が隠れています。過去を学ぶことは、「今」をしることであり、また未来をつくる一番の教科書です。学校で習う教科書では数行で済まされてしまう偉人たちの功績も、違った視点で見つめなおすことで、現代でも活かせる教訓とすることができるのではないでしょうか?
この章では、農民から太閤まで上り詰め、天下人となった豊臣秀吉を、CEO(最高経営責任者)として見つめなおし、成功と敗北の方程式をひもときます。
経営学的にみた戦国という時代
中世以降、鉄器がひろく浸透するようになると開墾できる農地が増え、農業の生産高はどんどん高まります。増えた生産量は、人々の生活を豊かにし、世の中には貨幣経済が進行していくことになりました。戦争ばかりしていたイメージの強い戦国時代ですが、人口は爆発的にふえ、経済、文化、あらゆる面で急成長した黄金の時代という側面もあります。
信長・秀吉が政権をになった16世紀の100年間で、日本の農業生産力は2~2.5倍にも増加しました。また関ヶ原の合戦で東西合わせて5万丁の鉄砲が一戦場に集結したという事実は、ナポレオン戦争以前の世界では例がありません。当時、ヨーロッパ全体でも銃の保有数は6万丁ほどで、日本は世界でも稀な軍事大国であったと指摘する研究者もいます。
16世紀末の日本は、農業だけでなく、軍事力、さらに大量の銃をつくる極めて高い工業技術をもあわせもった先進国だったのです。
織田がこね 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食うは徳川
信長、秀吉が登場する室町時代までの経済は、仏教勢力が一手に握っていました。彼らは「座」といわれる独占販売権を与えることで、収益をすいあげ、また箇所箇所に「関所」をつくり、消費税や、通行税をとっていました。今風にいえば徴税権を握っていたとも言いかえられます
秀吉がつかえた織田信長は、この「徴税権」をとりあげることで、物の行き来を担保し、経済を活発にさせることを思い立ちます。世に言う「楽市楽座」です。もちろん、既得権益をもつ宗教勢力は全力で抵抗し、その結果、比叡山の焼き討ちや一向一揆との対立が深刻化していくこととなるのです。
秀吉は、そんな信長の構想をひきつぎ、自由経済による発展を目指すことになりました。
そんな秀吉の天下取りの歩みをプチ大河ドラマ「総合商社 ひでよし」として紹介します
プチ大河小説「総合商社 ひでよし」
貧しい農家の出であった秀吉は、地元で急成長していた「織田コーポレーション」に就職します。「天下布武」というコーポレートポリシーを掲げ、同業他社を圧倒するベンチャー企業に就職した秀吉は、アルバイトからスタートし、正社員、店長と頭角を現す中で、創業者の信長に見いだされ分社化された会社を1つまかされるまでに出世します。
しかし織田カンパニーは、京都での上場を目前に、部下にのっとりを企てられCEOの信長が逝去。カンパニーも瓦解します。マーケットが流動化するなか、秀吉は、織田信長とは違う視点で、「総合商社 ひでよし」を立ち上げ、天下統一に邁進します。
金もうけの天才ひでよしの才覚
「総合商社 ひでよし」の武器は、「金もうけ」。そしてその金で従業員(部下たち)、ひろくは国民全員に夢を与えました。
刀を交えての合戦のイメージが強い戦国時代にあって、秀吉の戦いは独特なものです。
時間や金もかかる籠城戦を好み、正面衝突をできるだけ避けます。とくに秀吉の金の使い方が際立ったのは、鳥取城での戦いです。堅牢な山城として知られた鳥取城を落とすため、秀吉は、商人に頼み、市中の米を倍の値段で買い付けていきます。
短い時間で、国中の米があつまる中、気が付けば鳥取は米がない裸城になりさがり、事実、食糧のない籠城はあっという間に失敗し、城主は降伏。世界でも稀な、銭の力による城の攻略を成功させたのでした。
秀吉の金もうけの源泉は、商人としての確かな眼です。
競合他社が領地と石高(お米の収穫)の拡大に血眼になっているなか、いちはやく、堺のマーケットを独占。貿易や鉱山経営で利益をあげていきます。他の大名がお米の生産高にこだわるのと対照的に、「もの」でなく「情報」を武器に、手に入れたお米を転売することで、石高以上の収益をあげていきます。
低級な独裁者は、マーケットを独占すると、庶民の売上をピンハネし、贅沢な暮らしをすることを始めます。そして民衆の心は、離れていくことになります。
しかし、秀吉は、平和になった世の中での最大のメリットに目をつけます。そのメリットとは、「往来の自由」。そして、物を安全に運べることを前提にした新しい商いの可能性です。
それまでの時代、地域と地域を行き来することは、山賊に襲われるリスクなどをかかえ、簡単なことではありませんでした。たとえば、関西では米が不作、東北では、豊作だとします。米不足に悩む関西では高い値段で米が取引されていたとしても、米があまっている東北の米を運ぶ手段がありません。
秀吉は、このギャップに目をつけ、全国の市況をつぶさに観察し、東から西へ、西から東へと商品を動かしさらに銭を蓄えます。そもそも織田信長につかえていた当時、最初の根拠地となったのは、滋賀県の長浜。今も昔も商いの中心地として名高い「近江商人」に縁の深い土地柄です。秀吉の商人としての才覚は、そうした背景にも影響されているようです。
秀吉の三方よし
近江商人には、商いの神髄を示す言葉として「三方よし」という言葉が伝わっています。その意味は「売り手よし
買手よし 世間よし」です。
ピンハネ型の独裁者では、国民は貧しく吸い上げられるだけ、「自分よし、自分よし、自分よし」という面持ち。
しかし秀吉の革新性は、マーケットを開放し、商いによって、国全体が豊かにし、その上澄みだけをススッと懐にいれた点です。これはまさに三方よしの精神であり。「秀吉よし 商いよし 国民よし」という幸せなサイクルがそこにはありました。
事実、秀吉が治めた16世紀の100年間で、日本の農業生産力は2~2.5倍人口は爆発的にふえ、経済、文化、あらゆる面で急成長をみせたのです。また一説には秀吉の個人資産は200兆円にも上ったともいわれ、わが世の春を謳歌したのでした。
秀吉社長は、営業成績(戦上手)のいい加藤清正や福島正則をとりたてたのはもちろん、それ以上に、石田光成など、財務にたけた近江の人脈を取りたてていきます。
自身もアルバイトから身をたてたように、秀吉のもとには、立身出世を夢見る若者が集いました。「欲」のチカラで才能を引き出した秀吉。そしてこれに答えるように多くの侍が、成果をだし、その恩賞として一国一城の主となっていくのでした。
秀吉を支えたソロバン侍
増田長盛、長束正家、石田三成、藤堂高虎らの役員(武将)は、算術にたけた点を評価され、取り立てられたソロバン侍です。大阪城のような巨城を建てられたのも、20万もの大軍に過不足なく糧秣(兵士の兵糧と軍馬の馬草) を配ることができたのも、この経理的技術があったればこそだと言われています。マネジメントにたけたソロバン侍たちは、太閤検地などを取り入れ、さらに「総合商社 ひでよし」をもりたてていくのでした。しかし、切ったはったで出世してきた営業畑の武将たちには、ソロバン侍の出世が気にくわぬもの、この内部のしこりは、のちにCEOの死後、顕在化していくのでした。
「関ケ原の戦い」の本質
1代で天下統一を実現したCEOの秀吉。しかし、創業者の死は盤石と思えた「創業商社 ひでよし」は創業者の死と共に一気に破滅にと追い込まれます。天下分け目と言われた関ケ原の戦い。教科書では、徳川家康が天下どりを実現した戦いと記述しています。しかし、この戦いの本質は、「総合商社 ひでよし」の役員どうしの内部抗争です。戦いは関ヶ原でなく、畳の上から始まっていました。
秀吉を倒したものは秀吉
失政がつづいた晩年の秀吉、とくに朝鮮出兵の失敗は有名です。しかし本当の失敗は、 当初後継者と指名していた豊臣秀次を切腹においこみ、また秀次の子女、と妻妾・侍女など39人を惨殺した事件です。秀吉は秀頼かわいさのあまり、秀次の死だけではあきたらず、遺児によって秀頼の天下が脅かされないように、入念に殺戮してしまったのです。
秀次は、秀吉の姉の子どもであり、政権内部にあって数少ない親戚でした。
そして天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦い、こう着した戦局にあって、裏切りによって東軍に勝利をもたらした武将・小早川も、秀吉の甥(正妻・北政所がわ)であったことを考えると歴史の皮肉をかんじます。
因果往々、秀吉を倒したものは秀吉自身の弱さだったのかもしれません
事業継承という最大のリスク
関ケ原の戦いの本質は、事業継承を発端にした社内対立です。その対立とは、石田光成を筆頭としたソロバン侍(文治派)と、加藤清正、福島正則などの営業あがり(武闘派)の役員の対立。創業当時のメンバーと、新参者との確執。さらに、本妻(北政所)と愛人(茶々)との因縁、さらにさらに、後継ぎとなった秀頼の出生の疑惑など、複雑な要素が絡み合うなか、ライバル会社の徳川家康が上手に立ちまわり、対立をあおり、仲間われを誘導し、倒産へと追い込んでいきます。
ルールをつくるのもトップ。ルールを破るのもトップ
現代の企業でも、創業者の死後、社内抗争が激化し、結果創業者一族が追い出されることが多々あります。
しかし問題を起こす要因は、創業者が生きている間に種がまかれているのでないでしょうか?
戦国の世も、営業成績も「敵」を倒す戦は、ある種簡単なことです。しかし、獅子身中の敵、つまり自分の中にある「敵」と戦うことが結局一番難しい「戦」なのかもしれません
織田がこね 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食うは徳川
戦国時代を制した男は、信長、秀吉でなく、徳川家康でした。家康は、1603年の江戸開府に始まり、1867年の大政奉還に至る265年に及ぶ徳川幕府の政権は、世界史的に見ても類を見ない「長く平和な治世だった」と内外から高い評価を受けています。
家康の天下は、多彩な人材を生んだ「能力主義」「成果主義」が謳歌した戦国時代を否定し、「血縁主義」を採用。能力よりも、社会の安定を望んだのも特徴です。能力次第で、農民から天下人にもなれる流動性の高い社会よりも、有力大名の反抗心をそぐための幕藩体制を作り、農民を土地にしばりつけました。 秀吉が廃止した「関所」を復活させ、人々の往来を制限したのもそのためです。
反対に、秀吉の拡大政策は、朝鮮出兵など様々な遺恨を残しましたが、陶工の招致による陶磁器生産拡大等、交易による文化的経済的利益ももたらしています。 実際幕末における西洋文化との格差は、この江戸幕府の鎖国政策のせいと言えます。 もし鎖国をしていなければ、ルソン、ジャワなど東南アジアに広がっていた日本人町も隆盛を迎え、”平和的な大東亜共栄圏”が完成していたと指摘する研究者もいるといわれています。
歴史(失敗)に学んだ家康
生涯にわたって「質素倹約」を旨とした家康。彼の残した莫大な遺産は、彼が心血を注いで築いた磐石な幕藩体制とともに、その後250年以上にわたる長い「平和の礎」となりました。
その結果、江戸時代の日本は、現在もなお世界に誇れるような高度な独自文化の宝庫となりました。「家康がいなければ、今の日本はなかった」と言っても過言ではありません。また、「家康ほど日本史をしっかり学んだ武将は珍しい」ということも意外に知られていないかもしれません。
家康は「武家政権の祖」である源頼朝を信奉するなど歴史に造詣が深く、その死に際して、遺言として孫らに「歴史書」を形見分けしたことは有名なエピソードです。こうした彼の姿勢に触発された孫のひとり、「水戸黄門」こと徳川光圀(みつくに)は、長大な歴史書『大日本史』の編纂に生涯を捧げました。
家康が天下をとった最大の理由のひとつは「歴史」を学んでいたことです。たとえ誰かに妬まれようと、家康のように大きな成功を勝ち取るためには、歴史を学んで過去の事例に目を向け、そこから糧を得ることも大切です。そして、家康が学んだ一番の教科書は、「書物」でなく、信長・秀吉の失敗だったと断言できます。
天下人の失敗を教訓にかえ自らの政策に反映していったしたたかな男、徳川家康。
歴史は、彼を戦国時代のさいごの勝者に選びました。
いまこそ活かす歴史の教訓
パートから、正社員、課長、部長、社長とのし上がった秀吉の天下取りは、武力だけでなく、むしろ「銭」の力で成し遂げられました。CEO秀吉はビジョンをしめし、従業員(家臣)たちはおのおのの立身出世を夢見て豊臣政権を支えます。
秀吉の天下では、15世紀末の太閤検地から16世紀末までの1世紀間で当時の日本の国民総生産は3倍になったと見られています。明治維新以前において、これほど急速な経済成長を成し遂げた時代は例がありません。
事業継承の過程で秀吉は秀吉自身の弱さを露呈し、家康に天下をゆずることになりました。
歴史にifがあるならば、秀吉が守るものは「血」であったのか、あるいは苦言を制することのできる人材の登用だったのか、たくさんの教訓をいまに伝えています
はからずも短命におわった秀吉の天下道でしたが、いまこそその歩みを教訓にし、この日本という国を、世界に冠する光り輝く黄金の国ジパングにしましょう!
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