「トムとジェリー」で読む日中関係

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トムとジェリー 仲良く喧嘩しな~♪

中国の最高指導者・鄧小平氏は、来日した際、晩さん会の挨拶の席でユーモアを交え、こんな挨拶をされたことがあります。

 

「中国からの輸出品で2つ謝らないといけないものがあります。1つは、男尊女卑の思想。もう1つは、難しすぎる漢字です。」っと

 

欧米では、話すことば多様であっても、表記する文字はアルファベットでことたります。その文字数は全部で26文字です。一方、漢字圏の東洋人はこんな数では足りません。中国では約8000字の漢字が使われているといわれます。なお、漢字の総数は、驚きの10万字。すべての文字を使いこなすのは学者さんでも不可能なレベルです。

 

また、日本で一般的に使われる漢字の数は約4000字程度。

これに、「ひらがな」「カタカナ」を組み合わせることで、画数も多く、難しい漢字の弱点をおぎなっていきました。

 

鄧小平さんが、謝ったっというのは、そうした背景がありました。

 

漢字だけにとどまらず、憎んでも、喧嘩しても、中国と日本はお隣さん。

そして、文化を伝えてくれた父でもあり母であり、あるいは友人であった時代もありました。トムとジェリーのように仲良く喧嘩をしていく?というのが求められる関係性なのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カナ文字」は、日本最初の?発明品

約5000年前の中国で、「漢字」は誕生しました。占いなどに用いる甲骨文字にその原型をみることができ、現代でも使われている文字の中で最古の文字体系であり、また史上最も文字数が多い文字体系でもあります。その数は10万字をはるかに超え、他の文字体系を圧倒しています。

 

とにかく文字数の多い「漢字」。古代の日本人は、漢字のよさを認めつつ、「カナ文字」を発明し組み合わせることで、文章表現を簡易に、そして豊かにしていきました。その名残りに「訓読み」「音読み」があげられます。たとえば、【山】という漢字は、訓読みであれば【さん】。音読みであれば【やま】。中国の発音に近いのが、訓読みと言い換えることもできます。

 

音読みは、古来からの日本語です。日本語なので意味もわかります。

訓読みは、中国からの外来語です。外国語なので意味はちょっと分かりません。

 

たとえば、「はじめる」は大和言葉で、同じ意味の漢語は「開始」、外来語は「スタート」。大和言葉には、他の言葉にはない柔らかな響きがあることが分かります

 

平安時代をいきた貴族たちが発明した「カナ文字」。難しすぎる漢字をカイゼンしたことで、中国にも負けない発展をになうこととなっていきます。とくに優劣をわかたのが、明治期の文明開化の時、「カナ文字」をもつ日本人は、西欧の文化を積極的に取り入れることに成功しました。一方、漢字しかない中国では、これができません。

 

文明開化の隠れた立役者「カナ文字」

 明治期の日本人は、文明開化のかけ声と共に、数千数万の和製漢語を作りだして西洋文明の消化吸収に邁進していきます。 現在でもグローバル・スタンダード、ボーダーレスなどのカタカナ新語、さらにはGNP、NGO、ISOなどの略語が次々とマスコミに登場しています。
    
 漢字を作るか、カタカナ表記にするか、さらにはアルファベ ット略語をそのまま使うか、手段は異なるが、その根底にあるのは、外国語を自由自在に取り込む日本語の柔軟さです。漢字という表意文字と、ひらがな、カタカナという2種類の 表音文字を持つ日本語の表記法は世界でも最も複雑なものですが、それらを駆使して外国語を自在に取り込んでしまう能力において、日本語は世界の言語の中でもユニークな存在であると言えます。この日本語の特徴は、自然に生まれたものではありません。我々の祖先が漢字との格闘を通じて生みだした「発明品」なのです。

 

日本は、中国から距離も近く、ながく文化や幅広い影響を享受してきた関係です。一方、「カナ文字」の発明など、文化をかみくだき、独自の文化、独自の精神性も作ってきたともいえます。

 

日本と中国は、あらゆる面で、父であり、母であり、また、友であり、時には敵にもなりながら2000年に渡る関係を築いてきたのです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  

不幸な歴史

日本と中国は、1937年7月から8年間にわたって、交戦状態となりました。これが日中戦争です。現在の北京郊外で起きた盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに全面戦争へと進み、41年にアジア・太平洋戦争に拡大したのち45年の日本のポツダム宣言受諾・無条件降伏で終わっています。

 

この間、日本は多い時で約100万人の兵力を中国に展開。両国の死者数は正確には分からないが、中国での日本軍の死者は累計で約45万人と見られる。中国側は1931年の満州事変から45年までを抗日戦争とし、この間の中国軍民の死傷者について「3500万人余」を政府の公式見解としています。また、「南京大虐殺」をとくに問題視しており、今なお強い謝罪をあらゆる場面で求めています。

 

南京大虐殺とは? 

APAホテルの客室に、「南京大虐殺」を否定する記述のある書籍が置かれていたことが、大きな議論を呼んでいます。中国側が「不快感」を表明するのはいつものことだが、日本でも批判的な人が多いようです。

 

様々議論をうむ「南京大虐殺」。その様子を客観的に伝えたのは、現地に残っていた数名の欧米人の記者でした。彼らの記事によれば、

 

「日本軍は南京占領後、市内の民間人をも銃や銃剣で無差別に殺した。 老人や女性、子供を含めて民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。・・・民間の犠牲者の数は15日までに「数千」と推定して、 私は当時、報道したものの、正確な推定はきわめて困難だった」

と述べています。

 

幡谷個人の史観は、「南京大虐殺」はなかった。ただし、現地の混乱は想像以上で、国際法で禁じられた市民への攻撃や、非人道行為は、少なからずあった。というものです。

 

 

 歴史資料は30万人説を裏付けられるか

立場によって、数々の説が打ち出される「南京大虐殺」。第一報をつたえた欧米人記者の見解では、数万人。中国共産党は、30万人という数値を公式に発表しています。ただしその数を裏付ける客観的資料は存在していません。また当時、日本が交戦したのは、国民党であり、現在の主流派である中国共産党ではありませんでした。その点でも、国民党が主権をにぎる台湾(中華民国)では、「当時の南京の人口は20万人なのに、30万人という虐殺はあるはずもない!」との声をあげています。また歴史学者のなかには、連合国側が、広島・長崎の被害者20万人を小さくみせるため、「南京大虐殺」の死者数を30万に設定したと指摘する声もあります。

 

史上最大の援助

新しい日中関係をつくるため、中国に対し日本は巨額の援助を実施してきました。ODA供与は昭和55(1980)年に始まり、以来、平成23年度まで、日本は円借款3兆3164億円、無償資金協力1566億円、技術協力1772億円を中国に対して供与しています。

この円借款はかつて中国国内の空港・港湾、鉄道・交通網整備、発電所などの大型インフラ整備に投下され、中国の経済発展を支える基盤となっています。

 

この額は、一国の援助額としては、有史以来最大の援助ともいわれ、中国の近代化を大きく後押ししています。現在、日中貿易の額は、3500億ドル。日本にとっては、輸入相手国として1位。輸出もアメリカについでに2位になっています。

 

金で罪をごまかしてきたという意見は、日中両国にあります。ただし出さないよりか、出した方がいいし、出したことで日中両国が豊かになってきたのであれば、その金は、無駄なお金ではなかったはずです。

 

本当の問題はどこにあるのか

しかし「人命は地球よりも重い」という考えを持ち出すまでもなく、「南京事件」の犠牲者のひとりひとりの命も重いものです。先の大戦で尊い命を失った日本人のことを悼むなら、中国人の戦争被害者の無念にも思いをささげるのも当然です。命の重みに国籍の違いはないからです

 

日本軍による南京での残虐行為の犠牲者が、およそ2万人であって30万人ではないと証明しようと争っても、2万人くらいならばいい・・・というのも、間違った議論を生んでしまいます。

 

国同士の戦争に勝者はいません。いかにくだらない争いにけじめをつけ、次の時代につなげるかが大事です。日本と中国も、蜜月のような遣唐使の時代、あるいは、国の存亡をかけた元寇の時代と、それぞれの時代の先人たちは、現代にバトンをつなげてくれています。

 

日中の不幸にしてなくなった死者の魂も、いつまでも喧嘩をしていることを喜ぶでしょうか?

我々は、新しい時代をきづくために、前向きな議論をしていく必要があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人の躾と中国の躾

先日、中国出身の好々爺とお食事をする機会があり、日本人の気質や、中国の現状などのお話しを聞かせていただきました。

 

幡谷からは、「中国には家訓を残す文化はあるでしょうか?」をさせていただいています。

ご老人は、「家訓はないけど、躾は厳しかった。ただし、文化大革命と、一人っ子政策で、そんな文化はなくなっちゃった」と笑いながら教えてくれました。

 

「身を美しく」と表記する【躾】(しつけ)。この漢字は国字といい、中国には漢字の1つで、日本人が発明した漢字です。

 

また、家訓は、もともと平安時代に、学識のある公家の家から始まったといわれるなか、手本となるものはすでに中国にあり、顔氏家訓などが挙げられます。中国の家族道徳を反映したものが、日本に移植されたともいわれています。

 

たとえば、食事の際、目上の方が箸をつけるまで、御飯を食べちゃいけない。そんなルールがあります。こうした食事の際のマナーのいくつかは、中国の文化の影響がみられます。

 

 

一人っ子政策のなげき

何度もの大飢饉におそわれ、国力減退を体験した毛沢東は、世界的にもまれな、「一人っ子政策」を採用し、全ての国民に義務を課しました。その内容は、厳しいもので、もし二人目が生まれると、毎月の罰金が科せられるだけでなく、様々なペナルティーの対象になるそうです。

 

子どもを大事にする文化は、古今東西、人類共通の認識です

ただし、一人っ子政策をとった中国では、度を越した溺愛が、いわば社会の常識となっています。さらに一人っ子同士が生んだ子どもに至っては、おじいちゃん、おばあちゃんが二人づつ、2つの家族の命運が、たった一人の子どもにゆだねられることになります。

 

食事をしたご老人も、「娘には甘くなっちゃった^^」っと反省していました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんか切ない中国の道徳観

なぜ中国人は道徳観を失い、拝金主義者のように見えてしまうのでしょう。「3000年の歴史」といわれる中国。しかしこの3000年の歴史は我々日本人が想像しているような悠久の歴史ではなく、激動の歴史です。

中国では王朝が変わるたびに抗争が起き、家臣が君主を裏切り、代わりに権力の座に就くことが繰り返されるという抗争の繰り返しでした。

 

新王朝側は旧王朝側を粛清しまくり、王朝が変わるたびに数千万人の人口が減っているという信じられない現象が起きています。そしてそのやり方がすごい。反政府軍は相手の兵士のみならず、宮廷に使えていた役人、官女から料理人まで全て抹殺し、金品を奪い取り、全てを焼き尽くした。

また政府軍に味方したと理由付けをされ一般人民も粛清されています

 

このようなことが繰り返されたため、「生きるためには人を信じるな」ということが身についていくというのもしょうがないこと。今から2500年前の中国に生きた孔子が、「徳」のある生き方を説き、現状をなげいたというのも、当時をして、すでに大混乱の渦中に中国が巻き込まれていたという証拠です。

こうした歴史の中で、近年最も今の中国人を作り上げる事になる影響をを与えたのが中国の闇と言える「文化大革命」です。

 

 

文化大革命とは

文化大革命は、中華人民共和国で1966年からの10年間続いた社会的騒乱です。名目上は、資本主義の復活を阻止する社会運動だが、実際は毛沢東が復権するための大規模な権力闘争だったいわれています。

 

1958年から毛沢東が推し進めていた大規模建設、農業増産を目指した大躍進政策が行き詰まりを見せ、2000万人の餓死者と経済危機を生み、毛沢東へのの支持が衰えかけていたことが背景にあります。

 

中央政府からの呼びかけに答えて、学生たちは大学側に反旗を翻し、農民は地方政府への反乱を起こします。全国の若者たちがこの動きに同調して、紅衛兵と呼ばれる民兵組織を作りあげ、文化的遺物をぶち壊してこの国の歴史的遺産の残り香まですべて破壊し尽くそうとし、多くの知識人や政治家たちを「反革命分子」として迫害しました。

 

政府の公式統計によれば、この文化大革命により殺害された国民は170万人以上に上るといわれています。

 

人としての良心を奪う愚策

文革の最大の闇は、お互いがお互いを監視しあう密告制度に結実します。

 

資本主義は、敵。知識をもつものは敵、ひいては、中国がほこる儒教の精神や、親、兄弟への情をも破壊するベクトルへと暴走をはじめます。

 

理屈ぬきで、見つけられなければ自分が粛清されてしまう。たとえ冤罪であっても密告して自分が助かるか、変わりに死ぬかだ。そのためその対象を血眼で捜し、見つけられなければ実の親子同士でも告発をしあう事になりましたそのため夫婦、親友、兄弟全ての人間が信じられなくなっていく土壌を作っていきます。正直者はバカを見ると誰もが思い、正直者は生きて行けないという風潮が出来上がったのです。

 

 

知識、文化、技術、道徳観など全てを破壊した毛沢東。その後に残ったものは生き残るために必要なウソ、裏切り、拝金主義、これが今の中国人の考え方を作ってしまったと言っても過言ではないでしょう。

 

 

人が人らしく形成されるのに必要な基盤を全て破壊し、滅ぼしてしまったのだ。

このことが後の中華人民共和国内のモラル無き民の造成とその後の経済の深刻な停滞をもたらすことになったのです。

 

庶民の目からみた文化大革命

前述の中国の好々爺は、高校一年の時、文化大革命に巻き込まれ、学校は閉鎖。以後、10年にわたって、寒い寒い中国の東北部に送られ、強制的に農作業に従事させられたそうです。

 

その間、中国のお寺や、文化施設は、ことごとく破壊され、庶民の間に伝わった躾といった習慣も、消滅していったと嘆いていました。

 

好々爺は、10年にわたる強制労働ののち、大学に復学。苦学を重ね、日本に留学し、今に至るそうです。いま、一人っ子政策で生まれた娘さんは、日本人の旦那さんにめぐまれ、二人の子宝にめぐまれているそうです。親戚からは、2人目も孫がいる爺を、うらやまむ声が多いっと笑って教えてくれました。

 

マナーが悪いっと、叩かれる中国人。しかし、京都で聞いたタクシーの運転手によれば、タクシーを貸し切るような、大金持ちの中国人のマナーは立派なものですよ、っと教えてくれました。13億もの人口をかかえる中国。立派な人もいるし、当然、悪い人もいて当然です。じゅっぱひとからげに、中国論を語ることこそ、ナンセンスかもしれません。

 

好々爺は、娘さんを厳しく育てられなかった理由を、1つは、一人っ子政策。もうひとつは、過酷な文化大革命の時代のせいだと、語ってくれました。ちなみに、終始悪者?扱いされた娘さんですが、マナーもしっかりした素敵な女性だったことを付け加えておきます^^

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

鄧 小平は、文化大革命後の混乱を収束させ、現在の中国の繁栄を基礎をつくった政治家です。

その実績を表す1つの言葉があります。

 

白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である

 

共産党が、資本主義を推進していく矛盾。あるいは、貧富の差など、説明しにくい体制の矛盾をこの一言がいい表しています。幡谷なりの解釈では、「善悪はどうあれ、腹いっぱいに飯をくうのが何より大事」となります。

 

来日した鄧小平氏。当時の日本の記者が、尖閣諸島の領有問題というナイーブな質問をした際には、こんな切り替えしをみせています

 

われわれは釣魚島と呼んでいる。名前も違う。この点から、(日中)双方の見方が違うことは確かだ」

と述べて記者らをやや笑わせた後に、

 

 「両国政府がこの問題を避けようと話し合ったことは、比較的賢いことと考えている。こういう問題は放置しても、大したことはない。10年間、放っておいてもかまわない。われわれの世代の者は知恵が不足している。この問題は話しても結論を出せない。後の世代の人は、われわれに比べていくばくかは賢いだろう。そして、最後には皆が受け入れられる形式を見出して、解決することができるだろう」

と述べています。

 

煙にまいたような、あるいは核心をついたような返答に

3000年の歴史と、老政治家の巧みさを感じます^^

  

最後に、鄧小平氏がのこした遺したメッセージを紹介させていただきます

 

中国と日本の人民には2000年の友好交流の歴史がある。悠久の伝統的友情があり、友好の長い流れとしっかりとした土台がある。中日間には一時期の不幸な歴史があり、中国の人民は深刻な災難をこうむり。日本の人民も大きな被害を受けたが、2000年余りの歴史からすれば、要するに短い時期だ」などと述べ、「視線は未来に向けよう。一緒に努力しよう」 

 

いろいろあったし、これからもいろいろあるであろう日本と中国。

赤猫だろうが、白猫だろうが、ネズミを捕る猫がいい猫です。これからも時には喧嘩し、あるいは友となり、トムとジェリーのように仲良く喧嘩する関係であることを望みます。