現在の日本国憲法は、敗戦の翌年、1946(昭和21)年の2月4日から12日までの9日間に、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の命令で、GHQ民政局の25人のメンバーが書き上げたものであるといわれてます。
そのために、憲法改正を唱える勢力は、「占領軍による、日本弱体化のための押し付け憲法」で、日本が主権のない時代に押し付けられた憲法は「無効」だと主張する声も多いようです。
たしかに、GHQ憲法は「戦争放棄」、つまり日本の非武装を前提にしていた。そして作成したGHQ自体、日本が独立すれば、当然日本人の手で憲法をつくり直すものだと考えていた。
しかし、戦後、ほとんどの政権を握り続けながら、自民党はなぜ「憲法改正」に着手することができませんでした。かつて宮澤喜一氏は「日本人は、自分の体に合った服をつくるのは下手だが、押し付けられた服に体を合わせるのはうまい」と言ったことがあります。
やりくり上手な日本人が70年も守ってきた「憲法」。しかしさすがにガタがきています。海外では憲法を改正することにアレルギーはなく、同じ敗戦国であるドイツは58回もの改正を行っています。
また、戦力の保持を巡って議論となる「9条」の問題だけでなく、 日本国憲法の 第89条には、
「 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」
との条文があり、杓子定規に読めば、高校や大学などの私学助成は、おしなべて憲法違反であることは明白です。
憲法は、法律の法律です。
憲法は必ず守らなくてはいけません。一方、時代や人々の暮らしにあわせ、柔軟に憲法を変える必要もあります。
安部総理の誕生以後、改憲の議論が高まっています。
護憲派勢力は、安部総理は、まるで戦争を始めるかのような極端な表現をつかい憲法をめぐる議論を押しつぶしています。しかし内閣や、国会だけで憲法を変える訳もなく、できるのは、憲法改正の発議まで、あとは国民の一人ひとりが、今のままでいいと思えば、「×」を、改正すべきだと思えば「〇」をつければいいことです。
5月3日は憲法記念日。
どこかアンタッチャブルな憲法についての議論が深まる1日になることを願うばかりです。
憲法(けんぽう)とは、WIKIによれば、国家における組織の形態や国民の義務と権利、統治者や為政者が権限を行使する根拠、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいいます。
憲法は、法律の法律
護憲派や、改憲派、様々な議論がありますが、一番よくないのは、メンドクサイ?ものと議論から逃げることなのではないでしょうか? 日本青年会議所では、憲法に対するスタンスの違いを超え、国民の中で、憲法論議を活発化させる意識醸成を目的として全国一斉憲法フォーラムを実施しています。 これは、日本青年会議所がもつネットワークをいかしたもので、現役メンバーであった頃は、幡谷も、設営に勤めてきました
憲法は、国民のものです。 しかし、身近に感じる機会はほとんどなく、議論することさえアンタチャッブルな時代が長く続いてきました。護憲、改憲。あるいは、議論にわかれる9条、平和憲法の扱いなど、意見が分かれるからこそ、国民が決めればいいことです。
日本青年会議所では、10年単位で憲法の問題とむきあい、憲法草案の作成や、憲法を学ぶ冊子の作成など、陽のあたりにくい憲法論議について、運動をすすめてきました。 憲法は、国民の全員の課題でありながら、左翼さん、右翼さん交え、ものすごい批判や、つぶしあいが起こるやっかいな問題です。 今回の取組で、憲法にたいする理解がすすみ、きちんとした議論ができるステージが国民の間に共有されることを祈念します。
平和とは?
いじわるな定義では、平和とは、戦争と戦争の間の時間とも評されます(*_*)
平和のために戦うのも平和、有史以来、人類は闘いに明け暮れてきました。 あらためて、平和とはなんでしょう? 家訓ニストは、明るく豊かな社会であると定義します。この時の明るさとは、社会の明るさ、目に余る不正や独裁のなかでは、明るさはありません。そして、「豊かさ」とは、経済的な裏付けでなく、人間の思慮深さに根差すものと考えます。
戦争により、罪のない人が殺される。あるいは、市民であった兵士が、銃をもち殺人をおかす。そのいずれにも、明るさも、豊かさもありません。 殺人は、殺人です。 アメリカさんでたとえると、裁判所による捜索令状があり、その説明をおこない、証拠だ、法律だ、裁判だっと、何重にも貼り巡らされた司法の網が、戦争になると、「あっ危ない!?」「バキュ~ん」で終わりです。
訴訟社会ともいわれ、マクドナルドのコーヒーが熱すぎて50億円の賠償金。あるいは、泥棒にはいった男が屋根で足をとられ骨折、家主の管理責任をとい訴訟をおこす・・・といった厳格すぎる運用をする国が、バキューンで終わりです。
これは、豊かでも明るくもありません。 しかし、国が武力をもつことに、こんな議論も一方にはあります。 武力放棄をうたい平和憲法として知られる日本国憲法に関して、特攻隊を描き、映画化された『永遠の0』の作者でもある百田氏はこんな発言をしました。
「憲法9条を守りたい人間は、戦争が起きたら最前線に行ってもらい、『日本には憲法9条がある』と叫べばいい」といいっと・・・
幡谷の考える平和とは、前者と後者の真ん中の立場です。 平和を守るには、武力も必要。しかし、侵略戦争はもちろん、戦争は誰の得にもならない悲しい事実です。
歴史を丁寧によんでいけば、大東亜戦争は、自衛のための戦争であったと考えます。問題は、人間の思慮深さです。改憲を巡っての議論は、こうした歴史観や、ひとりひとりの国家観を喚起する議論にもつながります。
憲法改正に挑戦して悪いことなんてどこにもないのではないでしょうか?
愛情の反対は無関心である
2016年の参議院選から、投票できる年齢が引き下げられ18歳から投票できるようになりました。
しかし、世論調査の結果では、「必ず投票にいく!」っと答える若者も少なく、わずか10%たらずでした。その中でも「どうせ世の中は変わらないと・・・」っと、若者が、他人事のように答えるコメントが印象的です。
愛情の反対は無関心である。
政治への無関心は、民主主義の根幹を揺るがす事態であると幡谷は考えます。
しかし、学校のなか、あるいは家庭のなかで、選挙や民主主義。そして憲法について議論したことのある学生がどれだけいるのでしょうか!?
若者は社会の鏡です。一億総評論家と言われる時代にあって、自らの考えで投票し、あるいは国のために自身が何ができるのか?を考える必要があります。
どこか絵空ごとのように語られる『民主主義』の本質を、『進撃の巨人』に例え解説していきます。若い世代にとっては、テレビの中の戦争よりも、漫画の方がリアルティーがあるのかもしれません(*_*)
■『進撃の巨人』と市民の義務
『進撃の巨人』とは、圧倒的な力を持つ巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描いたファンタジーバトル漫画です。2009年から連載を開始。新人作家の初連載作品であるにもかかわらず2011年には第35回講談社漫画賞の少年部門を受賞するなど、各方面から高い評価を受けています。
物語は、繁栄を築き上げた人類が、突如出現した“天敵”「巨人」により滅亡の淵に立たされるところから始まります。生き残った人類は、「ウォール・マリア」、「ウォール・ローゼ」、「ウォール・シーナ」という巨大な三重の城壁の内側に生活圏を確保することで、辛うじてその命脈を保っています。
しかし、謎の巨人は無慈悲そのものであり、躊躇なく市民を食い尽くします。
巨人相手に、話し合いで解決できるわけもなく、徹底抗戦にそなえ、壁の中に住む市民は、巨人との戦いを支援する生活を余技なくされているという設定です。
壁の中の市民の義務は1つ。巨人の脅威を払しょくすること。
男、女をとわず武器をとり、ある人は、食糧の生産で街に貢献し、あるいは武器を製造し貢献するもの、またその生活を支えるものも貢献といえます。
市民一人ひとりが、巨人の侵入に備えそれぞれが役割を担い生活する「義務」がある。それがこの物語の前提です。
『進撃の巨人』で描かれる市民生活は、実は中世ヨーロッパをモデルにしています。暗黒の中世と言われる時代、疫病や外国の軍隊との戦争が絶え間なく続き、人々は高い城塞をきづき壁の中での生活をよぎなくされていました。
壁のなかで、生活できるということは、「安心」であると同時に市民としての「義務」が付随されます。
また「義務」を背負った市民は、様々な「権利」を手にいれ行政の運営に自分たちの意見を反映させていくのです。
これが、現代にも続く民主主義の原型です。
貢献によって手に入れた「権利」を行使するために、市民たちは代弁者をたて、行政に意見を反映させていきます。それが選挙です。投票によって自分の意思を表明することは、市民の権利である一方、それ以上に街への貢献が求められるというのが、城塞都市のルールだったのです。
平和主義!を主張しても、巨人や、異教徒にはそんな説得は届きません。
「壁が破られる=皆殺し」です。実際、異民族の侵入に悩まされてきた欧州の歴史をひもとくと、聖書には「異教徒は、皆殺しにせよ!」との記述まであります
『進撃の巨人』の世界観はファンタジーであってファンタジーにあらず。戦争はいけないことです。しかし侵入してきた敵に無抵抗に殺される・・・そこまでされるなら、武器を手に取り戦う必要もあります。
民主主義とは、空から降ってきた制度ではなく、こうした名もなき市民たちの血と汗で獲得したことを知る必要があります。
■権利の本当の意味
先の安保法制の際では、SEALDs(シールズ、正式名:自由と民主主義のための学生緊急行動)を代表とするは、学生団体が注目を浴びました。戦争法案反対、民主主義を壊すな!という主張、さらには強行採決反対に、数の横暴を許すなという意見・・・
しかし、多数決で決める。それが民主主義であり、少数の意見が通るなら、多数の意見を無視した「独裁」政治になってしまいます。
また、彼らに民主主義の前提となる「国への貢献」という視点はあったのでしょうか!?
髙い城壁に囲まれた中世の街のように、日本は広い海に囲まれた島国です。
巨人はいつ攻めてくるか分からないもの。だからこそ、普段の不断の努力が必要です。
武器をもち戦いにそなえる自衛隊さん、街の秩序をまもる警察官、働いて納税することで貢献する市民、あるいは病気になった人を助けることも、美味しい作物をつくることも、ゴミ収集のおじさんだって、そのすべてが自分たちの生活を守る尊い行いなのです。
自由に発言できる事や、施政に反対することも市民の権利です。
己の誠は、ひとによって違って当然、しかし、その主張は、選挙によって誰かにゆだねないとならないのです。
また「権利」には正義が必要です。
権利を英語でいうと【right】。このライトには、【正しい】という意味も含まれます
市民の権利には、正義が必要であり、また市民としての義務がなくてはいけません。
現代の教育システムでは、こうした民主主義の当たり前の感覚を学ぶ機会がありません。
いつ使うか?分からない英語の授業に1000時間も費やすのに、選挙や義務を学ぶ時間はせいぜい10分や20分というぐらいではないでしょうか?
そもそも、どうやって市民が、民主主義を獲得し、またその自由を守るために、汗や血を流してきたかを学校で教えてくれたのでしょうか?
壁の中(日本の中)で暮らす限り、国民には様々なサービスが保障されています。
世界有数の医療を、世界一安く受けることができます。
1万人あたりの犯罪発生の件数は世界一少なく、停電になることもなく、水道の水を安心して飲むことがあります。
職業を選択する自由があり公教育が充実し、奨学金を活用することで、大学に行くことも可能です。年金制度が整えられ、米タイム誌が主要20カ国を対象に実施した「国家イメージ」に関する調査では、日本は2007年から4年連続で第1位に選ばれる国、それが日本です^^
これだけのサービスを確保するために、あなたの親父も、そのお袋も、ずっとずっと前のご先祖さまも、市民としての義務にこたえ社会に貢献してきました。
ケネディー大統領はその就任演説で、
『国があなたのために 何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えよう』
と述べました
日本という国を守り、さらに幾歳とこの繁栄を次の世代につなぐため、あなたは何ができるでしょうか?
『進撃の巨人』では、正体不明の巨人が街を襲い無慈悲に人間を襲っていきます。
ただのフィクションというなかれ、実際の国際関係でも正体不明の第三国が国を襲うことは、起こりうる事実です。
戦争は起こらないにこしたことはない。また外交や民間交流によって、戦争が起こらないように努力することは大変重要なことです。
しかし、巨人は前ぶれもなくやってくる。だからこそ、平和なときに、万が一の事態を想定して準備しておくことが重要なのです。
そして、国防とは、巨人と戦うために銃を磨くだけでなく、市民としての義務を果たし、それぞれの持ち場面で、それぞれの努力を積み重ね、幸せを築くことに他ならないのです。
選挙にいくも、いかないのも、言ってしまえば「自由」です。
しかし、あなたが放棄した「投票する権利」には、国政選挙で約200万円以上の使途を決める一票であり、またゆだねてしまった以上、次の選挙までは、文句も言えない立場でもあること覚悟しましょう
改めて、国があなたのために 何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えます。
僕の場合は、その答えが、納税と選挙への投票と、家訓づくりです。
あなたは何ができますか?
投票ぐらいで許してもらえるなら安いもの、それだけ権利(正義)は重い。そして憲法はもっと尊い。憲法記念日にちょっとだけ、当たり前と思い込んでいる民主主義や、平和について考え頂くことをおススメします^^
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