皇居勤労奉仕団について

みなさまは、「皇居勤労奉仕団」の活動を耳にしたことがあるでしょうか? この度、皇居、赤坂御用地での清掃活動をおこなう「勤労奉仕団」に参加させていただきました。

 

「勤労奉仕団」とは、全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中で四日間、ボランティアの清掃活動を行っています。その数、平成に入ってからの実績で言えば、一年間を通じておよそ一万人。この活動のことを「皇居勤労奉仕」と呼ばれています。

 

清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担です。それでも北海道から沖縄まで、約一万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けています。一般にはほとんど知られていないことかもしれません。

 

今回、家訓づくりの師である山口秀範先生に誘っていただき、福岡からの奉仕団の一員に合流させていただく形で、念願の奉仕団に加わることができました。画像は、奉仕の記念品として、陛下からの授かり物として賜った下賜品のお菓子です。幡谷家の家宝として仏壇に供えさせていただきました。

 

(以下 宮内省HPより 抜粋)

皇居勤労奉仕は,昭和20年5月に空襲で焼失した宮殿の焼け跡を整理するため,同年12月に宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりであり,それ以降,今日まで奉仕を希望する方々をお受けしています。

 

現在の皇居勤労奉仕は,連続する平日の4日間,皇居と赤坂御用地で除草,清掃,庭園作業などを行います。広い場所ですから個人でというわけにはいかず,15人から60人までの団体による参加をお願いしています。団体は地域の集まり,職場の仲間,学生有志などの構成が主です。手続要領及び詳しい要領を下に掲載しておりますので,ご覧ください。 なお,申請は郵送のみとなります。電子申請,FAXでの申請は出来ません。ご不明な点がございましたら,ご遠慮なく下記照会先にお問い合わせください 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京のど真ん中に35万坪!? 

知ってて知らない皇居とは?

 

皇居は、元々徳川家康がきづいた江戸城に、明治維新後、天皇さまのご在所として整備しなおされたものです。戦前は、「宮城」(きゅうじょう)と言っていたそうです。

 

その広さは、実に35万坪(*_*) 敷地内は、御所や宮内庁などの施設があるものの基本的には手つかずの自然が残されています。日本人には当たり前かもしれませんが、東京という世界有数の大都市の真ん中に、広大な森を抱えていることは、驚愕の事実ではないでしょうか?

 

皇居内には、天皇陛下ご自身がお手植えさえる田んぼや、豊かな自然が守られ、ホタルやトンボ、タヌキなどがおり、近年では、オオタカの生息も確認されています。皇居内では害虫の被害や、松くい虫などもいないとのこと、その理由は豊かな自然のバランスが生態系を保ってくれているからというから驚きです。

 

ちなみに、都会では社会問題となっているカラスの被害も、皇居内に限って言えば、天敵でいる猛禽類が繁殖している森はカラスにとっては住みにくいらしく、あんまり飛来してこないそうです。

 

今回、奉仕活動として、宮中の森に足を踏み入れる機会にも恵まれました。あまりに森が深く、自分が東京のど真ん中にいることを忘れてしまう程の空間です。バブルの時には、皇居の土地をうれば、アメリカ全土が買えると言われていました。ただその空間にはただただ森がひろがり、限られた人間と、小鳥や小動物だけが暮らしている・・・ 尋常じゃない程の「豊かさ」と有難さを感じる奉仕となりました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皇居勤労奉仕団誕生の秘話

 

昭和天皇御製

戦にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる

 

SAPIO 2009年2月11-18日合併号より 

勤労奉仕団、GHQの占領下の中、決死の覚悟で宮城県の青年団の申し出から始まりました。

掃除1つで「決死」?と感じるのは現代の感覚です。終戦間もない昭和20年、戦前の価値観は否定され、皇室への尊崇の念を表すことさえはばかれた時代、GHQ本部の目と鼻の先で奉仕活動を行うことは、逮捕はもちろん、命の危険と隣り合わせの決断だったのです。奉仕団の出で立ちである白いハチマキは、当時の参加者の「覚悟」を今に伝えています。

 

 

【GHQを驚かせた占領下の「皇居勤労奉仕」誕生秘話】

 時は昭和20年12月。つまり終戦の年の年末のことだ。当時、日本は言うまでもなく占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っているありさまだった。

 

その皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩、中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりだった。木造の建造物はほとんど焼失していた。明治時代に建てられた端正雄大な宮殿も焼け落ちて礎石や瓦、レンガなどが散乱し、目も当てられない状態だった。手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。

 

そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した・・・・

 

 

【皇居の清掃奉仕を申し出た若者たち】 

この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れたという。

「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。‥どうかお手伝いさせて下さい」と。

 

このことを筧素彦総務課長(当時)から電話で知らされた木下氏は、ただちに筧氏と一緒に門外で彼らと面会。その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか、と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであった」--。

木下氏の証言によれば、皇居勤労奉仕はこのような形で始まったことになっている(同氏『皇室と国民』。)

 

当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下でのことだ。その上、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。

 

そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、じつに驚くべきことと言ってよい。ただし、木下氏の証言だとも六十人の青年グループが突然、皇居に押しかけて「手伝い」を申し出たように受けとれるが、じつはこれ以前に勤労奉仕の受け入れをめぐるやりとりがあった。

この点については筧氏の証言がある。

 

【宮内省 総務課長の勇断】

それによれば、ことのいきさつは以下の通りだった。この年の11月22日、宮城県から上京してきた二人の人物が宮内省(当時)を訪れた。この時、二人に応対したのが筧氏だった。

 

この二人は、地元で指導的役割を果たしていた。一人は青年団運動のリーダー、鈴木徳一氏、46歳。もう一人は東久邇宮内閣の緒方竹虎国務大臣の秘書官だった長谷川竣氏(のちの衆議院議員)、33歳。彼らは現今の思想悪化を憂いつつ、なお皇室のことを思って荒れた皇居の清掃にあたりたいと願う青年男女がすでに地元に60名にもおよんでいることを告げ、勤労奉仕の許可を求めたのであった。

 

この熱意ある申し出に対し、筧氏はどう対応したのか。氏の証言を引用しよう。

「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」(日本教文社編『皇居を愛する人々』)

 

かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に勤労奉仕の許可を申し渡したのであった。何とも恐れ入った勇断と言うほかない。

 

この時、鈴木・長谷川両氏は、何の書類審査もなく即日、許可されてビックリ仰天したという。それも無理はない。ただでさえお役所仕事というのは手続きが煩雑で、時間がかかる。ましてや天皇陛下のお側近くで仕える宮内省に、まったく前例のないことを申請しようというのだから、二人とも相当に手間暇がかかることは覚悟していたはずだ。それなのにただ一回の口頭の申し入れただけで、ただちに願いが聞き届けられたのだから。 

 

【拡大する勤労奉仕にGHQが疑念】 

宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗った。正確には男性55名、女性7名の計62名で、団長の鈴木氏と副団長の長谷川氏を除き、ほとんどが22、3歳の若さだった。苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず、「娘っ子のうちには、両親兄弟と永い別れの水盃をかわしてきたものもいる」という(木下氏証言)。

 

むろん、占領当局によって拘束されるようなことはなかった。ばかりか、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。みなの前に昭和天皇が姿を現されたのだ。

鈴木氏の証言を紹介する。

 

「奉仕はだんだん進んで正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石垣の上に、かすかに人の群の気配がするので、ひょっと見上げると、陛下がお立ちになって、こちらをご覧になっていられます。(中略)お付きの方が見えて、陛下がお呼びだという。私は作業衣のまま石段を上って御前にまいりますと、木下次長さんがお取次ぎで、いろいろ御下問を賜りました。(中略)やがてご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の眼にも涙がいっぱい光っていました」(前掲書)

 

その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りあるだろう。

「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌21年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、一万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは昭和26年で、何と4万人近くの国民が参加した(奉仕団は831団体)。

 

こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。その情報をキャッチした海外のメディアが奉仕団に取材をかけるようなこともあった。総力戦に敗れた国の君主制は第一次大戦時のドイツや第二次大戦時のイタリアのように滅びるのが通例だ。なのに日本の皇室の場合、滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っている。彼らが不審に思うのも当然だ。だがもちろん、そこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのだ。

 

 

【これまで累計 約120万人が奉仕】

 占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、皇居勤労奉仕は一年の中断もなく続けられている。これまでの参加者は、昭和20年から平成19年までの累計で約120万人にも達している。

 

この勤労奉仕は、15名以上60名までの奉仕団を結成し、奉仕日(4日間)の半年ないし1ヶ月前までに名簿を提出して申し込めば、原則として誰でも参加することができる(詳しくは宮内庁のHP参照)。だから高校生や大学生などの奉仕団もある。

 

奉仕期間中の1日、やむを得ない事情がないかぎり、今も天皇・皇后両陛下から直接、お言葉をいただく機会がある。それは天皇と普通の国民が最も近づく貴重なチャンスと言ってよいだろう。

 

 あらためて昭和天皇の御製の歌を紹介させていただきます。

戦にやぶれしあとのいまもなほ民のよりきてここに草とる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界中から尊敬される日本の皇室

 

画像は、先に来日され、公式実務訪問賓客として御所に招かれたサウジアラビアのムハンマド副皇太子殿下との会見のご様子です。副皇太子殿下が天皇陛下にサウジアラビアご訪問をお求めになるなど、会見は終始穏やかな雰囲気で行われたそうです。

 

このご会見についてはアラブ諸国でも報道されているのですが現地の人々に衝撃を与えているのは、ご会見の様子を撮影した一枚の写真。陛下と殿下、そして通訳の方の椅子と、花瓶の置かれたテーブルのみという、空間の究極的なシンプルさに、多くの方が感銘を受けています。

 

権威をあらわすために、金蘭豪華な諸外国の王宮にくらべ、あまりにシンプルで、それでいて気品のある空間に、海外では、「欧州の王宮と全然違う」 皇居を特集した番組がつくられたとのこと日本人には当たり前にみえる光景でも、世界に人々には驚きをもってむかえられているようです。この一枚の写真が示唆することは数え切れないほどあるのかもしれません。

 

日本の皇室の歴史は大変古いものです。西洋の政治がはじまるずっとずっと前から、天皇さまは日本国を率いていらっしゃいました。

 

日本は世界で一番古い国

 

あまり知られていない事実ですが、日本はギネスにも認定される世界で一番古い国です。あなたはその事実をご存知でしたか?

 

日本の建国は、神話上は紀元前660年2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日)、初代天皇である神武天皇が即位された日までさかのぼります。歴史学者の中には、4世紀頃の建国だと指摘する声もあるものの、日本の次に古いのがデンマークで建国は10世紀ごろであることを考えると、「世界一古い国」という事実は動かしようのない事実です。

 

これは、ギネスや、アメリカ合衆国のCIA公式サイトでも掲載されています。また、日本の天皇家は、世界では現存する最古の王朝であり、現存する唯一のエンペラーであり、現存するただ一つの神話をバックボーンに持つ血統です。

 

世界の王室が集まった時、天皇陛下が最も上座に座る

日本の天皇陛下の権威はローマ法王と並び、世界最強クラスです。しかし、天皇陛下の権威を日本人は知らず、誤解されている部分も多くあります。海外でもその権威は健在で、エリザベス女王も、アメリカ大統領よりも上の存在です。世界で唯一「エンペラー」と呼­ばれる存在で、日本人がその権威を知らないのは、おかしなことです。

 

その理由は、この2つです。

・天皇家は世界で最も歴史のある王室である事。

・「King」よりも格上とされる「Emperor」であるから。

 

もし、ローマ法王と天皇陛下、そしてエリザベス女王と、アメリカ大統領が同じタクシーに乗ったとして、天皇陛下(emperor)≧ローマ法王(Pope)>英国女王(Queen)> アメリカ大統領etc(president)っと、上座は天皇陛下が座ることになるのです。私達日本人として、天皇さまの正しい知識と情報とふさわしい見解を持ちましょう。

 

天皇の基礎知識

古くから日本人にとって、「天皇=皇室」は空気のような存在だったのかもしれません。皆様は、京都御所を見たことがありますか? 御所には外敵を防ぐための堀などはなく高さ6尺程度の土塀があるだけです。皇室は、誰も攻めてこない・・・との共通認識があった証拠です。いつの時代の国民も御所を攻めて天皇にかわろうという発想はしませんでした。王様の警備がスカスカなんて、世界広し日本だけの現象です。

ここに日本の皇室のすごさが隠されています

 

古くは「スメラミコト」「スメロキ」「スベラギ」等と呼ばれ、語源としては7世紀中頃以降で、中国語の天皇・地皇・人皇の一つに由来しており、スメラミコトの漢語表現といわれています。古代日本では権力の頂点をオオキミ(大王)といったが、天武天皇(672年 - 686年)ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになりました。初代・神武天皇から、現上天皇の明仁(あきひと)様まで、125代の天皇が即位してきました。

 

戦前、天皇陛下が君臨する政治体制を「国体」と表現していました。この「国体」は神話の世界から2600年間。史学的に証明できる一番古い天皇からさかのぼっても1500年間、たえず守られてきたものです。馬上の天下は馬上で終わるとの言葉があります。「馬上」つまり武力で奪った天下は、いつか武力で奪われるもの、しかし日本の御皇室は、奪ったのでもなく、もらったのでもなく「ある」もの。そして、長い間、国民に愛されてきた事実は、「必要とされてきた」証でもあります。

 

 

平成のご皇室のありかた

 

先代の昭和天皇さまは、戦後の巡幸で国民に勇気を与えてくださいました。そして今上天皇さまは、日本列島に自然災害が襲う度に、被災地にお姿をおみせになられるようになりました。東日本大震災の際には、いち早く国民にむけてのビデオメッセージをお出しになっただけでなく、痛みを共に感じるために、計画停電にあわせて、電気をつかわない生活を実践されていたそうです。

 

巡幸も、宮城、岩手、福島の3県だけでなく、埼玉、千葉、茨城の被災地もめぐられています。忘れられた被災地といわれる茨城には首相も大臣もくることはありませんでした。しかし、陛下がいらっしゃることになり、その後の復興のスピードが加速的に進んだと住民の方が教えてくれました。戦後の混乱期、そして被災地にあって、国民が傷つき打ちのめされた時、弥勒菩薩のように現れる陛下は、本当の意味で現人神なのかもしれません。世界的な権威であり、政治家であり、無私のひとであり、どれだけ賛美の言葉を並べても、ご皇室の皆様をあらわす言葉がみつかりません

 

中国では易姓革命という考えがあって、「徳」のある君主が徳の無い君主に代わって天下を治めるとされています。実際に有史以来、何度も王朝が変わっていますが、日本では王朝の交代は起りませんでした。

 

19世紀 イギリスの思想家「スマイルズ」は、

国としての品格は、その国民が自分が偉大なる民族に属するのだという感情によって支えられ、そこから力を得るものである。」

と述べています。

 

世界には190国あまりの国があるそうです。1度しかない人生、自分が生まれた国を愛せない人がいるとしたら、それは寂しいことです。

 

「皇居勤労奉仕団」として4日間の活動に従事してきましたが、奉仕団ができる草ぬきや落ち葉ひろいは、広い皇居においては、お手伝いできる最小限のことに限られます。悠久の歴史をつむいでいらっしゃった天皇家の皆様の御偉功に感謝し、恩に報うためには、草抜きをする奉仕団に加わるよりも、日常を頑張ることこそ、「報恩」にあたいします。

 

経営者は立派な経営をすること、お父さんお母さんは家庭をまもり子育てをすること、国民それぞれが、一所懸命に、それぞれの場所で、懸命に働き、喜びを分かち合う日々を送られることこそ、天皇皇后さまが望んでいらしゃることだと、確信しています。

 

ぜひなかなか機会はめぐまれないですが、なんとか「皇居勤労奉仕団」にご参加いただくことを強く強く推奨します。