真日本風土記 

 

 

『トキに選ばれた島、佐渡』

  

景観10年、風景100年、風土1000年

 

風土という字は、「風」と「土」と書きます。日本の各地に残る風土は、人間と自然の共生してきた歴史です。いま、日本の風景が劇的な変化をみせています。どこにいっても、見慣れたチェーン店が並び、ご先祖さんが1000年かけてつくった風土が、わずか数10年で、跡形もなく消え去ろうとしています。

司馬遼太郎さんは、「龍馬は土佐の風土、西郷は、薩摩の風土でしか育たなかった」と指摘しています。風土とは、大地だけを指すものでなく、我々、人間もまた風土の一部なのです

 

家訓を広めるため全国を旅する家訓二ストも、様々な風と土を感じてきました。故郷の風土は、その場所、その季節でしか味わえないものです。美味しいものは、東京にしかない、あるいは、ネットであれば何でも手に入る。というのは錯覚です。

あなたは、あなたの食べたもので出来ている。そして、地域の「豊かさ」があなたを育みます。自分の両足で大地に立ち、「土」が生み「風」が育てた故郷の味を信じる時代が今まさに求められています。

 

 

今回、訪問させていただいた佐渡島では、トキの放鳥がはじまっており、平成20年から計12回、約100羽が、自然での生活を始めています。自然化での繁殖も成功し、群れをなして大空をとぶ姿は雄大そのもの新しい景色をつくっています

トキは、かつては日本列島の全域にすみ、学名は、Nipponia nippon。まさに日本を代表する鳥です。しかし、乱獲と環境の変化に順応できずその数を激減。さいごの生息地となった佐渡島では、保護活動むなしく平成5年に日本うまれの最後のとき「キン」がなくなり、以後、中国のトキを借り受け個体数を増やす取り組みをつづけています

 

かつては、日本中、どこにでもいたトキは、日本の風土のなかで育まれた鳥でもありました。トキが好むたべものは、ドジョウやタニシ。人里の近くに巣をつくるそうです。つまり、森がふかい山奥でなく、人里でしか生きられなかったことが、トキを絶滅においやりました

 

トキを死においやったものはなんでしょう?

 

日本の自然は、自然にできたものでなく、ひとの営みと共にできた風景です。たとえば、里山の雑木林は、草刈や間伐をすることで、こんもりとした林になっていきます。人間とて自然の1つ。一説には縄文時代から、こうした営みを続けてきたともいわれています

 

トキを絶滅させたものは、ご先祖さんが数千年かけつくってきた「風土」を壊した報いです。山があり、川があり、里山があり、先祖より数千年かけて培ってきた自然との共生が、戦後わずか数十年で、なくなってしまったのです

佐渡島では、トキが生活できる環境をまもるために農薬をつかわない、原始的な農業に変換しています。また、一般的な島と違って、水田が豊富にあるのも島の特徴です。トキが最後に残った佐渡島は、日本中どこにもあった里山の風景を守ってきた証だったのかもしれません

 

相対性理論で有名な科学者アインシュタインは、不気味な予言をのこしています

「ミツバチが絶滅したら人類は4年で滅ぶ」と。多様な食物連鎖の中では、1つの種の絶滅は、想定外の問題を引き起こすことが指摘されています。トキを守る取組は、生態系を守る取組であり、また人類を救うミッションでもあります。

 

トキを守る活動は、日本の風土を守る取組です。

トキに選ばれた島「佐渡」。この島には、豊かな自然だけでなく、人々の営みと共に、古くて新しい光景がひろがっています。トキが舞う島の風土が、島に住む素敵な人たちによって守り育まれること、そして、100年、1000年かけて、トキが舞う豊かな風景が、日本中どこにでもある風土になることを夢想します。

 

今回、残念ながら野生化でのトキをみることができませんでした。観光客でも、トキを見れる人は多いようですが、家訓二ストの日頃の行いが悪かったのでしょう(^_^;)

これからも家訓の旅をつづけ、徳溢れる男になり、いつか再訪する日には、トキに選ばれる男に成長していることを約束します。

 

トキみたかったな(*_*)

 

 

 

 

 

 

 

 

真日本風土記

 会津若松の風景

 

 

 

月日は100代の過客なり、ゆきかう時もまた旅人なり

 

風土とは、山や川だけでなく、そこに暮らす人間の営みそのものを指す言葉です。 

画像は、会津藩の設立した藩校・日新館から城下をのぞんだものです。 

 

全国に200の藩校が乱舞した幕末にあって、その随を競ったのは、会津・「日新館」。長州・「明倫館」。薩摩・「造士館」。そして我が水戸藩の「弘道館」と言われています。

 

13年度 日本JCの未来を切り拓く日本人育成会議では、会津・日新館を会場に会議を設営させていただきました。深い雪のなか、全国から集う仲間と研鑽を高めあうこと、是まさに「学び」なり^^

 

同じく江戸時代にあっても、学びのために、師を求め出向く事例は数多く、吉田松陰先生は、弘道館、日新館に訪れた記録が残っています。 長州から、水戸、そして会津と、徒歩での旅となれば、半年ぐらいはかかったのではないでしょうか? 

 

それだけのコストを払い、松陰が学ぼうとしたものは、何だったのか?

分からないから、学ぶ。分からないから、知っている人を訪ねてみる。 案外そんなもんだったと思います。

 

しかし、その過程にこそ、「学び」の本質が凝縮されている気もします。 知識を詰め込み、脳の反射神経をたかめ、訓練を繰り返すような「教育」に人間は見えません。 師をもとめ、たった1つの真実をみつけるため全国を旅する姿にぼくは人間を感じます。

 

教育の多様性とは、目的の多様性です。

「大学にいく」という目的であれば、今施される教育に異存はありません。しかし、大学がいくことで、人生の安泰が保証されるのでしょうか?

選択肢は、人間の数だけあるべきなのです。

 

目的は1つでなく、人生の数だけ、それぞれが歩む道がある。

そして、学びの形も1つでなく、地域の数だけの「道」が必要です。

 

 200年もの昔、全国各地に設立された藩校の出身者が、その後の明治維新を担う人才を輩出していくのは偶然ではありません。 歴史が人をつくるのでなく、人が歴史をつくるのです。

 

家訓ニストは、「ひとづくり」で歴史をつくります 

最後に、水戸藩の弘道館設立にあたって、藤田東湖の草案になる「弘道館記」はこう記された言葉を紹介させていただきます

 

「道を弘めるものは人である。故に人は人としての道を学び、これを弘める使命を持たなければならない。」

 

「ひとづくり」を表明する水戸青年会議所では、創立依頼、数々の施策をとりニュー弘道館構想、そして今は、全ての事業を平成弘道館として、「学び」を市民に提供できるオープンソースとして運動を展開しています。

 

人は人としての道を学び、それを弘める。

 

それは弘道館記に記されている精神そのものです。

「家訓づくりプログラム」は、人としての道を学ぶもの。であるならば、それを弘めるのもまた、必然です。 会津日新館の空気に触れ、ぼくが旅にでる理由がわかりました。

 

人としての道を学ぶため、そして、マイレージを貯める?ため、家訓づくりプログラムのご採用を心よりお待ちしています。

 

とくに、ANA便がでている地域の皆様のオーダーをお待ちしています^^; できれば温泉があり、さらに地サイダーがあり、なおかつ・・・ 欲深き家訓ニストも人間修行中。家訓づくりプログラムで、人の道を説くつもりもなく、暗中模索、人生という迷路からの導きを一緒に勉強させてください(><)

  


 

 

 

 

 

 

 

 

 

真日本風土記

 松山の風景

 

 

 


  

あなたは坂の上の雲だけをおって、坂をのぼることができますか?
しかし未来なんてそんなもの、雲をつかむ努力をした人だけが、輝かしい未来を手に入れることができるのではないでしょうか?

 

希望を胸にこっけいな程の努力をつづけた明治という時代に比べ、未来を落胆し生活する今の日本人は、明治期にいきた日本人に、学ぶ必要があるのではないでしょうか?

 

松山での全国大会では、司馬遼太郎さんの著作「坂の上の雲」の一節が度々取り上げられていました。画像は、松山城の中腹に建てられた記念館からの風景です。そんな松山で感じた徒然を、ブログで紹介させていただきます^^

 

 

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まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。

 

「小さな」といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。

産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年のあいだ読書階級であった旧士族しかなかった。

明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。

誰もが「国民」になった。

不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。

 

この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。

社会のどういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、教師にも、軍人にも、成り得た。

この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。

 

今から思えば、実に滑稽なことに、コメと絹の他に主要産業のない国家の連中は、ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした、陸軍も同様である。財政の成り立つはずがない。

が、ともかくも近代国家を作り上げようというのは、元々維新成立の大目的であったし、維新後の新国民の少年のような希望であった。

 

この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、どのように振舞ったかという物語である。

主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかく我々は3人の人物の跡を追わねばならない。

四国は、伊予松山に3人の男がいた。この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるに当って、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコルサック師団を破るという奇跡を遂げた。

もう一人は、俳句短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中興の祖となった俳人・正岡子規である。

彼らは明治という時代人の体質で、前をのみを見つめながら歩く。

上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。

(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)

 

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松山で行われた日本JCの全国大会では、来賓挨拶のなかでも、「坂の上の雲」の一節が、高々と読み上げられていました。

 

明治という時代にあって、上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。っと

 

司馬さんも指摘する明治という時代の【明るさ】に比べ、平成の時代って、ぬめっとした【暗さ】がないでしょうか?この違いは何でしょう?

明治初期にくらべ、電気、水道、ガスといった生活資本は整えられ、クーラーも、携帯も、手に入れた私たちの生活は、明治期の人からみれば、お大尽さまか、あるいは宇宙人といった面持ちです。また、努力をすれば、社長にも、役人にも、政治家にだってなれる!そうした透明さは、今の日本にだってあるはずです

 

では、今の時代を覆う【暗さ】ってなんなんでしょうか???

 

維新の黎明期に活躍した、高杉晋作はこんな遺訓を遺しました

「おもしろき 事もなき世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり」

 

結局、暗い、明るいは心の持ちよう。課題があるとするならば今の時代を満喫できていない「わたし」に問題があり

あるいは、明治のように、未来を信じひたすらに坂道をのぼる、そんな我慢強さがないだけなのかもしれません 


また明治期の明るさの1つは、地方の元気さに裏付けられています。明治の英傑は皆、地方出身であり、それぞれの風土で育った様々な才能や価値観が、新しい時代を作っていきました

しかし、現代は東京を中心として大都市化すすみ、地域には何の希望もない・・・そんな風潮さえあります。

 

しかし、地方にあって東京にないもの。それは「人物」です。

麻生元総理は、「東京には人材が多くても人物がいない。」と今の日本を表現されました。

 

地方(水戸)はすがすがしい態度で、わが道を歩み、人間を消費する街、東京を救う必要性があると考えます。

水戸は古くから学びの地として知られ、人間を育む風土に溢れる街です。この町で暮らし、息をするだけで、人が磨かれるそんな未来を夢想してます。

 

そのためにも、まず家族という原点にもどり先祖から伝えれてきた素朴な価値観、「ご飯をのこさない」あるいは「靴をそろえる」そんな当たりまえのことを当たり前にできる・・・・そんな人を育む街、水戸であってほしいと考えます。

 

風土とは、山や、川だけでなくそこに暮らす人、文化をさす言葉です。そして水戸ほど、学ぶことに長けた風土はない!とも感じます。また当たり前のことを当たり前にできること、それを「道徳」といってもいいのではないでしょうか?

水戸は道徳の聖地であるべきです。そして、そのお手伝いを家訓づくりをもって実現します。

 

松山には、松山の良さ、そして人物を育てる風土がありました

おなじく水戸には水戸の良さ。そして人物を育てる風土を信じ、またそんな風土をつくる取り組みとして家訓づくりを広げる運動をまい進していきます

 

       

 

 真日本風土記

土地に眠るご先祖さんの知恵

 

 

 

広島でおこった土砂災害では、多くの犠牲者をだす結果になってしまいました。

観測史上、まれな大雨になったとはいえ、この悲劇は避けられないものだったのでしょうか?


今、行政が主導し、何億もの費用をかけ防砂ダムや壁面の工事を行っています。しかし、命はコンクリートでは守れません。被害を未然に防ぐためには、何千年とこの土地と向き合ってきたご先祖さんからの知恵をいかすべきだと考えます

 

質問です。まったく同じ条件の賃貸物件があったとしてあなたはどちらの物件に入居しますか?

①コーポ八木
②八木蛇落地悪谷マンション


答えの多くは、①! 
②は、見ただけで毒々しい・・・(*_*) 

八木蛇落地悪谷・・・この地名は、人が住むのに適していないというご先祖さんからのメッセージです。
地名は、歴史を語る宝です。しかし、無粋な 市町村合併のなか、日本中でそんな「知恵」がなくなろうとしています

津波の被害があった東北には、波分神社がのこっています。これは、津波の到達地点を未来に遺したものでした。しかし、後世に住む我々は、この教訓を生かず。神社の先(海岸線)にむけ宅地造成をすすめてしまっています。これも、先人の知恵を軽視してしまった不幸な例です。
 
今回、大規模な土砂災害に見舞われた広島市安佐南区八木3丁目はかつて「八木蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」という地名だったことがTVで紹介されました。

地元の住民らによると八木3丁目は山からの水の通り道だったようで、まるで蛇が降るような水害が多かったことから蛇が落ちる地と書いて蛇落地(じゃらくじ)と命名されたといわれています。

先人は、「蛇落地」との地名に教訓をこめ、災害の危険をで伝えましたが、近世になり、不動産価値の問題から地名が変更され、土砂崩れの教訓も忘れられてしまいました。

あなたの住んでいる場所、そして古い地名を調べてみてはいかがでしょうか?
土地に眠るご先祖さんからのメッセージや教訓が、分かると思います

ちなみに、弊社の建つ水戸市城南には古い地名がありません・・・理由は、千波湖の埋め立て地だからです。
案の定の先の震災では甚大な被害を受けてしまいました(p_-)

先人の知恵・・・ 偉大です


  

 

 

 

 

 

 

 

 

真日本風土記

 水戸の風景

 

 

 最後の将軍となった徳川慶喜の「正義」を、水戸に伝わる風土をつかって紹介させていただきます。

 

水戸徳川家は、家康十男・徳川頼房を初代として始まります。一般に御三家といわれ、尾張、紀州と共に、将軍家を補佐する役目として設置されたといわれています。

しかし、家康はある密命を頼房に託していたともいわれ、それが水戸藩の家訓になっていた考えられます。その密命とは、天皇家への尊崇の立場です。これは一種の保険とも考えられます。つまり、家康はあっけなく滅びた豊臣家の二の舞を踏まないよう、天下騒乱が起こることを想定し、子孫の中で、将軍ではなく、天皇を尊ぶ家をつくりました。

 

このことは名文化されませんでしたが、のちに最後の将軍になる水戸家出身の慶喜公の証言や、代々正室を京都の公家より迎いれてきた事実でも証明できます。水戸徳川家の幕末期の血統をみれば、有栖川家をはじめ有力な公家と婚姻関係があり、慶喜自身、将軍家より公家に近親者が多かったのです。

 

200年以上さかのぼっても神君家康につながらない血筋より、公家、つまり天皇家に近い将軍、それが慶喜の特異性です。そして、慶喜には父、斉昭から口伝で授けられた家訓がありました。明治期に遺された証言では、こんなやりとりが記録されています。

斉昭:「水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである」

 

ここで、今回のブログの主人公である慶喜について、おさらいしてみましょう。

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生し、以後、一橋家に養子にだされたあと、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)に任じられる。江戸幕府最後の将軍であり、また水戸徳川家にとっても、最初にして最後の将軍となりました。

 

幕府の最後の切り札として登場した慶喜。しかし父・斉昭より天皇を崇拝することを家訓として授けられた慶喜は、偽の勅を操り、天皇を担ぎあげ倒幕をせまる官軍と全面対決することなく大政奉還を実施し、270年の江戸幕府はこうして幕を閉じました。

 

慶喜の秀でた能力は、新政府の桂小五郎をして、「神君家康の再来っ!」っと恐れられました。

生涯、江戸城を出ることもなかった江戸末期の歴代将軍の中で、これだけドラマティックに、そして業績を残した政治家はいません。政治の面では、政権を朝廷に返上した大政奉還の実現の際には、弁舌はげしく、多くの諸公、公家たちを相手に孤軍奮闘した記録が残されています。殖産興業の面でも、慶喜がつくらせた横須賀にのこる舟を建造するドック等は、明治から大正、昭和と、多くの舟の建造をし日本の豊かさを支えました。また、意外なところでは、石川島播磨重工業も、慶喜公由来の会社です。

 

これだけ優秀な慶喜が、戦わずして負けたことにあなたは疑問を感じませんか?

そもそも、慶喜の世界史以上稀な、見事な敗戦がなくして、明治維新も、日本の繁栄もなかったことをあなたは御存知でしょうか?

規格外の怪物 慶喜を語るため、今回のブログでは、日本の枠をこえ世界情勢から語らなくていけません^^

 

当時の世界情勢は、西欧列強と言われた白人による植民地政策の最盛期の時代です。世界の国々の独立が奪われ、完全な形で独立を保ったのは、200余国のなかで、タイと日本だけという状況でした。

 

白人による植民地政策は、狡猾で、また心理をついたものです。まず宣教師をおくりキリスト教を布教させます。この点では、秀吉、家康による布教禁止のおかげで先兵のおくりこまれる危機を脱していたのは幸運でした。次に行う戦術は、内戦です。つまり国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです。植民地化の際、目立った戦もないままなし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労をまっていたからです。白人様は、とにかくずるい(*_*)

 

しかし、日本の場合、イギリス、フランス、ロシアにアメリカ。各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたのに、慶喜公の見事な退却と、徹底した新政府側への恭順の姿勢のすえ、新政府側、徳川側消耗することなく政権が引き渡されます。軍隊だけではありません。なにより庶民、農民、豊かな大地が荒れることなく、次の時代に引き継がれたのです!

家訓をしらない歴史家たちは、慶喜の選択を、弱腰とも批判します。また徳川側に十分な戦力が整っていなかった?というのも間違いで、鳥羽伏見の戦いの時点では、西欧式の軍隊も導入し、最新式の大砲をそなえた軍艦まで所有し、新政府と徳川側の戦力差はなかったものと言われています。

 

しかし、慶喜は戦わなかった。

そのことで、生涯、弱腰といわれ、そしていまなお、慶喜を批判する人。あるいは、無能の将軍との辱めをうけています。しかし、慶喜は悠久の日本の歴史のなかで、負けて勝ったのです。つまり内戦に突入しなかったことで、西欧列強からの干渉を抑えたのです。徳川家は負け日本が勝った。それ以上の勝利があるのでしょうか?

 

戦の中で、どう負けるか?が一番難しい判断です。秀吉は負け戦のしんがり(退却時の最後の一団)をつとめ、信長の信頼を勝ち取り、百姓の身分から、天下取りをする足がかりを築きました。同じように、慶喜は激動の時代のしんがりをつとめ、今に続く日本の繁栄をもたらしました。

しかし、今から約70年前、日本は大東亜戦争を戦いアメリカを中心にした連合国側に、粉々に打ち負かされました・・・。しかし、この時、秀吉、慶喜のように、敗け戦を上手にたたむ「将」がいたのなら、歴史は変わっています。事実、多くの悲劇をもたらした戦争の中で、戦傷者の9割は、終戦をむかえる1年の間の悲劇です。つまり1年、早く終戦をむかえていれば、尊い人命の9割は助かったのです。戦局をみれば、サイパン島の陥落後、本土への爆撃が可能になった時点で、日本の勝利はなくなっていたのです。

 

大東亜戦争の悲劇は、サンパン陥落後の日本に、負け戦を演じる「慶喜」がいなかったことです。

そして、幕末の日本には「慶喜が」いたのです。

 

そんな慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓と、藩校・弘道館。そして水戸の風土であると家訓ニストは断言します

そして、偽勅をあやつるズルい新政府軍より、皇室への尊崇の念があったことも事実です。

勝者によって歴史がつくられる。しかしそろそろ、慶喜公、斉昭公の名誉回復と、その偉大な功績を議論すべき時がきているのではないでしょうか?

 

歴史は勝者によって作られるもの。 

通説とされる「歴史」は、勝者によってねつ造された都合のいい歴史です。

たとえば、大東亜戦争後のGHQによる言論統制。戦後70年でようやくその嘘と向き合うムードになっています。近年では、原子力をめぐる報道でも、さまざまなデマや、意図的に隠された情報が問題になりました。

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

 

最後に慶喜と天皇家にまつわるエピソードを1つ紹介させていただきます。

維新後、普通の感覚でいうと旧政権のトップであった慶喜が蟄居とはいえ存命していたのは、今の国際情勢から判断しても異例のことです。21世紀になってもアメリカ様は、フセインを殺し、ビルラディンも法廷にかけることなく銃殺しています。これは、明治天皇からの特別な計らいがあったのかな?と家訓二ストは考えます。

そして、慶喜は、77歳まで生き、歴代将軍の中で一番の長寿をまっとうしています。慶喜の敵方であった志士の面々と比べると西南戦争で散った西郷隆盛、暗殺にあった大久保利通、伊藤博文も、テロリストによって殺害されました。慶喜は、偉大な敗者となり、表舞台から去りながらも、自分を捨て、なおかつ最後は、勝ったのかもしれません。

 

明治天皇と慶喜は、明治末期に会食の機会がもたれ、かつての居城、江戸城跡にたつ皇居にて面会された記録がのこっています。また、貴族として最も、位の高い公爵を授けていることから、明治天皇より特別な計らいがあったことは、言うまでもありません。そして、驚くべきことに、慶喜の息子は、大正天皇を支える侍従長に就任し、一番近い側近として、天皇家を支えていったのでした・・・

 

「正義」は常に控えめです。そして、深慮深く見守らないと、偽りの正義を振りかざす悪者に騙されてしまいます。

そして、「正義」の人、慶喜は正義よりも、尊い「大義」に生きた人生だったのかもしれません。30歳で就任した将軍職をわずか1年間で瓦解させ270年の徳川政権を店じまい。そして残りの44年間を晴耕雨読の日々で過ごした人生は、見事としか言いようがありません! 

  

温故知新。古きを訪ねて新しきをしる。

あなたは、このブログで何を感じたでしょうか?

そして、あなたは誰に、何を残し、何を渡しますか?

 

歴史の裏に家訓あり。

そんな歴史の1ページも、あなたが遺す家訓から始まるかもしれません・・・

家訓づくりプログラムの受講を改めて推奨させていただきます<m(__)m>

 

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(※元ねた 水戸藩の家訓について、記載されたブログです)

 

常磐神社HPより

http://www.komonsan.jp/kura/post_57.html

 

 

明治34年の頃、私、渋沢栄一(しぶさわえいいち)が大磯から帰る汽車の中で、伊藤博文(いとうひろふみ)公爵と出会ったとき、伊藤公爵が次のような話をされました

 

「渋沢さんはいつも徳川慶喜(とくがわよしのぶ)公を誉めたたえておられますが、私は立派な大名の一人くらいに思っておりましたが、今はじめて慶喜公という方は普通の人でない非常に優れた立派な方であると言うことを知りました」と話されました。

伊藤公は、なかなか人を信用し認めない方であるのに、いまこのように話されるのは、と疑問に思ったので、なぜですか?とたずねました所、

「一昨夜、有栖川宮家で、スペインの王族の方を迎えて晩餐会があり、慶喜公も私も相客に招かれ、宴会が終わってお客が帰られた後、私は慶喜公に「維新のはじめに貴方が尊王というものを大事に考えられたのは、どのような動機からですか?」

とたずねたところ、

慶喜公は迷惑そうに

「自分はただ昔からの家の教えを守ったに過ぎません。ご承知のように水戸は義公の時代から皇室を尊ぶということをすべての基準にしてまいりました。私の父、斉昭も同様の志しを貫いておりまして、常々の教えも、我らは三家(水戸藩・尾張藩・紀伊藩)三卿(田安家・一橋家・清水家)の一つとして、幕府をお助けすることは勿論でありますが、これから後、朝廷と徳川本家との間で争いが起きて、戦争でもするような大変なことにもならないとも限らないが、そのような場合には、水戸家はどんな状況になっても、朝廷に対して弓を引くようなことはしてはいけない。これは光圀公以来の代々受け継がれて来た教えであるから、絶対におろそかにしたり、忘れてはいけないものである。もしもの時のためにお前に言っておく。

と教えられてきました。しかし、幼いときは、それほど大事な事とは考えていませんでしたが、二十に成り、(安政4年・1857)小石川の水戸家の屋敷に参りましたとき、父、斉昭は姿勢を正して、現在は黒船が来たりして大変な時代に成っている。この後、世の中はどのように変わって行くか分からない、お前も20歳になったのであるから、先祖から代々教え継がれて来た水戸家の家訓を忘れるではないぞ。と言われました。この言葉がいつも心に刻まれていましたので、ただそれに従ったまででございます」

 

と慶喜公は答えられました。

本当に奥ゆかしい答えではありませんか。慶喜公は本当に偉大な方です。と伊藤公が言われました。私は後に慶喜公にお会いした時に、このことを尋ねましたら、そのような事があったなあとおっしゃいました。

 

(渋沢栄一著、徳川慶喜公伝・第4巻から。現代文に訳)


  

 真日本風土記

 土鈴のある風景



 月日は百代の過客にて、行き交う年もまた旅人なり

(「奥の細道」松尾芭蕉)

 

風土という字は、「風」と「土」と書きます

そんな風土が育てた産物の1つに「土鈴」があります。

幡谷は、土鈴を集めることをライフワークにしており、母から受け継いだコレクションは1000点をこえています


しかし、お土産物の多様化がすすみ、土鈴文化は風前のともしびという状況です。

全国にあった窯元が次々に商売をたたみ、同時に、地域にあった文化も、消え去ろうとしています



そもそも「土鈴」とは、土の鈴。粘土をこね、型をつくり焼かれて、出荷されるものです。 神社の授与品やお土産として、おいてありませんでしたか?

土鈴は、邪気が清らかな鈴の音を嫌らうことから、魔除けの意味も持っています。また日本における土鈴の歴史は古く、縄文時代の遺跡からも発掘されているほどです。        

 

 

山ぞいの街では、天狗が題材になり、川ではカッパ。 福島では、「ブヒン様?」っと地域の伝承がデザイン化されてきました。

また神社仏閣にねざした土産物用途の土鈴でも、地域独自の様々な工夫が見て取れます

 

景観10年、景色で100年。そして風土は1000年と言われます。

日本全国、どこにいっても同じような街並みが増え、1000年かけて醸成された風土が、たかが10年で壊されそうな時代になっています

しかし、土鈴は千差万別。地域で売れ残った「土鈴」は最後のフロンティアなのです。

 

大正時代、柳宗悦は、それまで正当に評価されてこなかった焼き物、染物、漆器など庶民が使ってきた雑器の中に美を見出し、民芸運動として活動されました。

無名の職人さんの手による民衆的工芸品がいかに素晴らしいものか?世に問い、今では一般的になった「民芸」の文字も、柳らによる造語であるといわれています。

 

土鈴の中に、21世紀の「民芸」を感じないでしょうか?

 

なんで土鈴を集めるのか?そこに土鈴があるからだ!

だれが決めたわけでもない自分の眼を信じ、土鈴ハンター哲太郎は、日本の風土を感じるため、土鈴ハントという、「ぼくの細道」をゆっくり歩いていきます

 

  

 

 

 真日本風土記

 平将門と祟りの風景

 

 怨霊信じますか?


迷信や怨霊は、ざっくり嘘!というのは簡単です。ただし気にされている方がいる以上、否定できるものではありません。


例えば、結婚式の日どりに仏滅をさけませんでしたか?


合理的には説明できないが、なんとなく日取りを気にしているならば、それは、「迷信」に支配されている証拠です


人は社会のなかで生活しています。無意識でも、多くの方が気にされる迷信には、実は見た目以上の存在感があります。
正しい、正しくないという判断ではなく、習俗習慣として使われていれば、それは、社会の中に「いる」ということではないでしょうか?

 

その昔、荒俣宏さんの原作の「帝都物語」という映画がありました。

帝都(東京)の破壊をもくろむ魔人加藤と、それを阻止しようとする仲間たちの物語です。

この作品のなかのキーとなったのが、平将門の怨霊です。

 

平将門は、平安末期、平氏の姓を授けられた、桓武天皇5世の子孫です。圧政に苦しむ地方の代弁者として国府を次々に襲い関東一円を支配下におきました。その際「新皇」を自称し、茨城県の猿島に独立国を打ち立てるも、朝敵となり、即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られています。平将門の戦いは、のちの武士の発生を示すとの評価もあるようです

 

茨城県の坂東市にて憤死した将門の亡きがらが、京都におくられ改めて処刑されたものの、さらし首が飛び出し、茨城をめざしたものの力つき落ちたところが、首塚として知られ、今も丸の内の一画に奉られています


 関東の独立を夢見、敗れた平将門でしたが、その後100年程すると鎌倉に幕府がおこり、事実上、天皇から武士へ政権が委譲されています。また同時代をいきた関東の庶民にとっては、圧政をひく役人をやっつけたヒーローだったのかもしれません。


その後、江戸を収めた徳川家によって保護され奉られた場所が、神田明神であり、また明治になって、天皇が遷都される際には、反逆者である平将門を祭神からはずす処置がとられたほどです。

 

とくに丸の内にある首塚では、首塚の祟りが有名で、塚を動かそうとした大蔵省が、大正12年大臣をはじめ14名が亡くなった他、昭和15年には落雷による火事が、そして終戦後も、GHQの指示で整地しようとしたところ、ブルドーザーがひっくりかえり死者が出たとされています。

 

祟りがあるか、ないか?は別にして、都会の真ん中で、いまも開発をされず平将門の首塚が鎮座し続けているのは事実です。周辺のオフィスでは、首塚にお尻をむけないよう気を配り、日本を代表する有名会社の幹部たちが、年に一回の鎮魂祭をおごそかにとりしきっているそうです・・・

 

全く合理性のない話のようですが、1000年前の「怨霊」を未だに信じている人がいるのです。平将門は、とっくに亡くなっています。しかし、首塚の祟りを恐れる人々にとっては、今も「生きている」のではないでしょうか? 少なくとも更地にすれば何億にもなる土地に塚を遺しているのは事実です つまり将門公の怨霊は、何億以上の怖さで、今の人々の心を支配しています

 

東京駅のほど近く、いま手厚くまつられる平将門の首塚。そして、その本拠地となった茨城、千葉には今も多くの逸話が遺されています

画像は、将門の終焉の地にたつ「国王神社」です。実際には反逆者として処刑された将門を「国王」という名の神社に奉っている処に興味がわきます。この神社は、地元のひとによって、ひっそりと守られた神社です。決して豪華でない社殿ですが、信仰心を感じるスポットでした

 

祟り信じますか?

 

幡谷の曾祖母・あいさんは、守谷と呼ばれる将門とゆかりの深い地域の出身です。

生前の曾祖母は、「成田山にはお参りにいくな!」っとの申しおくりを家族にめいじており、町内会の旅行の際にも幡谷家だけはバスから降りず、家訓を守ったそうです

 

これは、成田山新勝寺の由来に関わる史実で、平将門の討伐を祈願するために建てられたのが、新勝寺。なので、将門にゆかりの深い一族は決して成田山には行ってはいけない!っというのが、あいおばあちゃんの主張だったようです

 

祟りはとくに信じていないけど、念のため幡谷も成田山にはいきません

 

何でも合理的に済む世の中で、人間の小ささを知り、傲慢さを戒めるためには、「たたり」ぐらいあるほうが、人生をを豊かにしてくれます^^

 

あなたの信じる「たたり」を教えてください^^;

 

次回の「たたり」特報は、カーネルサンダースの呪いです!

お楽しみに?否、くわばらくわばら・・・

 


  

 

 

 

 

 

 

 

 

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